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「J-POP」という電気グルーヴのアルバムについて何かを書こうとしたら色々と中途半端なことになった件

まとめ

※今回は電気グルーヴが2008年にリリースした「J-POP」というアルバムについて何かを書こうとしたが、力及ばず90年代の電気グルーヴについて薄っぺらな感じでふれただけで中途半端なところで力尽きた。本編の「J-POP」というアルバムの感想までたどりつけなかった。続きはいつか書く。それではアルバム「J-POP」についての感想の導入部分だけどうぞ。

※力尽きたという言い方は適切ではなくて「J-POP」のアルバム感想にしては前置きが長すぎたので前編と後編にわけた、という言い方がより正解に近い。今回は前編。後編は未定。書かれない可能性も普通にある。

 

90年代の電気グルーヴ 

 

 

 00年代の電気グルーヴとはなんだったんだろうか。

 

 「J-POP」とは、なんだったんだろうか。

 

 2008年に発表された「J-POP」というアルバムは彼らにとって久しぶりのオリジナルアルバムだった。その前に発表された純粋なオリジナルアルバムは2000年の「VOXXX」まで遡る。

 

 電気グルーヴはキャリア最高傑作となり後に90年を代表する名盤とも言われるアルバム「A(エース)」を1997年に発表する。この「A」からはヒット曲であり代表曲となる「シャングリ・ラ」を先行リリースしている。一般的に知られている電気グルーヴはこのころまでの楽曲が多い。主要メンバーの一人であったまりん(砂原良徳)はこの後1999年に脱退。

 00年代の初頭、2000年に電気グルーヴ石野卓球ピエール瀧の二人組となり「VOXXX」というアルバムをリリースする。「VOXXX」は初期の電気グルーヴの持つデタラメさ、破天荒さ、奔放さと、「VITAMIN」「DRAGON」「A」の持つ繊細さ、先進性、緻密さ、斬新さを併せ持つ問題作だった。まりんが抜けたことにより電気グルーヴのタガが外れてしまったようにも思えた。電気グルーヴにおけるタガとはまりんのことだったのか。

 ここまではよかった。「VOXXX」というアルバムの制作まではなんとか電気グルーヴを運営することに支障がなかったように思えた。けれど、ここから00年代の電気グルーヴの活動は大きく減速する。

 

 90年代の電気グルーヴは「音楽を前に進めること」をテーマにしていたように思う。それはダンス/エレクトロニカとラップを掛けあわせた楽曲であったり、自由奔放で無軌道なサンプリングであったり、どこかビースティ・ボーイズを思わせるパフォーマンスであったり、テクノという音楽の布教活動であったり、海外の反応を、例えばアシッドハウス・リヴァイバルなどに強く影響を受けて楽曲を作ったことであった。そしてさらに特異だったのはその活動を広い範囲でおこなっていたことだった。

 電気グルーヴがANN(オールナイトニッポン)という深夜のラジオ番組のパーソナリティ(DJ)をつとめていたことはあまりにも有名で、その番組で石野卓球は自身のおすすめの曲をかけることが多かった。「電気グルーヴのオールナイトニッポン 今週のおすすめ」あたりでググるとその時にかかった曲の一覧が今でも見つかると思う。あの時期にメジャーな(当時はオールナイトニッポンというラジオ番組は比較的メジャーな場所だった)でHardfloor(ハードフロア)やUnderworldアンダーワールド)がかかることはマレだったと思う。今でこそ有名な彼らだがハードフロアアンダーワールドもこの段階では決してメジャーな存在ではなかった。とにかく電気グルーヴは積極的にテクノやハウスの布教をおこなっていた。

 地上波のテレビにもよく出ていた。「タモリの音楽は世界だ」という番組に3人そろってゲストとして登場し、テクノについてタモリに説明したこともある。同じくタモリが司会をするMステ(ミュージック・ステーション)では「カメライフ」の後半歌詞を適当に歌ったり、「シャングリ・ラ」の曲の最後に銃で撃たれて血まみれになったこともあった。このあたりの動画は探せばおそらくyoutubeあたりにある。「N.O.」のテレビ出演の際には特に歌パートがないピエール瀧の行く末を筋肉少女帯大槻ケンヂに心配されたりもした。また、まりんはY.M.O.のカルトキング(カルトQというクイズ番組のチャンピオン)となり、違った意味で彼は本物なんだなあと感心された。

 ロッキング・オンという音楽雑誌がある。90年代の途中まではとても興味深い音楽雑誌だった。渋谷陽一という音楽評論家が作った出版社で洋楽雑誌というよりはロック雑誌として有名だった。この渋谷陽一の著作の中に「ロックミュージック進化論」というものがある。この著作の中にロック・ミュージックとはつねに進化し続ける音楽というような文章がある。もちろんそれは幻想なのかもしれないが、少なくとも90年台途中までは有効な考え方だったようにも思えた。そしてこれはある種、石野卓球の考えていたことにも通じる部分があったと思う。

 ロッキング・オン・ジャパンロッキング・オン社が作った邦楽ロック雑誌だ。電気グルーヴがロックなのか?という疑問はともかくこの雑誌によく電気グルーヴは登場した。90年代中盤のロッキング・オン・ジャパン電気グルーヴ小山田圭吾小沢健二奥田民生スピッツあたりでローテーションしていたように思う。その中でも石野卓球のインタビューは私にとって印象的だった。2万字インタビューという独特の枠組みの中で音楽をもっと前に進めたいという思い、テクノという音楽を発見した喜び、保守的なアーティストたちへの反感、世間の電気グルーヴに対するイメージと自分たちの活動に対するギャップなどを嬉々として語っていた。

 けれど不思議なことにロッキング・オン・ジャパンで2万字インタビューに答えていた石野卓球はロックが嫌いだと公言していた。

 90年代の石野卓球はロックという音楽を古臭い音楽と言い切り、その口ぶりでは特にギター・ロックを嫌っていた。とはいえ例えばエレファント・カシマシなどには好意的な反応を示していたし、電気グルーヴの楽曲でもギターがアレンジで使われているものも多く、彼らの中では有名な曲「富士山」などでもギターがフィーチャーされているし、ロックといえばリフと言い切って「誰だ」という曲を制作しているし、石野卓球がリスペクトするNew Order(ニューオーダー)は普通にギターを使った編成のバンドなので、そこまで単純な発言ではないと思う。が、とにかくこの時期のロックという言葉につきまとう古いイメージを嫌っていたし、音楽というものに最新の新しい音を求めていたことは間違いない。

 スチャダラパーのMCボーズはダウンタウンの番組の中で石野卓球について昔はデタラメだったけれど、今(90年代中盤)は真面目な音楽人間になった(意訳)。つまり変わってしまった。というようなことを言っていた。

 電気グルーヴの持つどこかコミックバンド的な雰囲気と、彼らのやろうとしている先鋭的なことのギャップを両方引き受けていたのが90年代の電気グルーヴだった。先進的な音楽を作りたいけれど、それを決して狭いフィールドでやろうとはしなかった。わかってくれ人にだけ音楽を届けたいというアプローチではなかった。可能な限り大きく網をうち、できるだけ多くの人に引っかかってほしいということをおこなっていた。

 

 当時流行していたカラオケでまで歌われるようなヒット曲「シャングリ・ラ」を世に出し、アルバム「A」の大成功、その後主要メンバーのまりんの脱退するも、次のアルバム「VOXXX」を意地で作り上げた。このアルバムも「A」同様に名盤といって良いと思う。

 

 その後00年代に入ってからの電気グルーヴはライヴリミックス・アルバム「イルボン2000」、セルフ・トリビュート・アルバム「ザ・ラスト・サパー」、2枚組のベスト盤「シングルス・アンド・ストライクス」、スチャダラパーとのコラボレーション・アルバム「電気グルーヴとかスチャダラパー」と電気グルーヴとしてのオリジナルアルバムから遠ざかっていた。活動そのものもどこか単発での活動が多くなり、「VOXXX」までの時期とは異なりアーティストとしての現役感が薄れてきたように思えた。

 もちろん電気グルーヴは最新のヒット曲を次々と制作し、新曲をどんどん有線のランキングに送り出すような類のアーティストではないので、その点に関しては変ではない。けれど、しかし、それでも活動スピードが停滞しているように感じていたのが00年代の電気グルーヴの印象だった。実のところ00年代の途中、私は電気グルーヴは終わってしまったのかもしれない、と思っていた。「ザ・ラスト・サパー」と題されたリミックス・アルバムとその後に発売されたベスト・アルバムという状態から考えて、すでにこのバンドは解散してもうないのかもしれないとも思っていた。

 

 

 そんな中00年代が終わりに差し掛かったころ「J-POP」というなんだか意味不明なタイトルのアルバムがリリースされることになった。

 

 

 

※一応ここまでが電気グルーヴのアルバム「J-POP」の感想に関する前振りというか前編です。本編というか後編は1年以内くらいに書きます。

 

 

 

(↓ここからの文章は2019年に書かれています↓)

追記:00年代の電気グルーヴについて

 

その後、電気グルーヴの活動を俯瞰するにあたって重要なドキュメンタリー映画が2015年末に公開されている。タイトルは「DENKI GROOVE THE MOVIE? -石野卓球ピエール瀧 」である。

 直接的に映画の中で石野卓球ピエール瀧も何かを語っているわけではないが、90年代の終了とともに電気グルーヴを離脱した砂原良徳のインタビューが特に印象的で、ある意味、00年代の彼らの活動の意味を推測することに役立てることが出来る。

 この映画の感想を私個人の2016年まとめの際にちょこっとだけ書いた。(→link)

興味があれば読んでほしい。

 肝心の電気グルーヴのアルバム「J-POP」の感想はいまだに書けずにいることもあわせてお伝えしておく。

 

 

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