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誰の心の中にも「からかい上手の高木さん」がいる

私にとっての高木さん

 私は思わず膝をうった。これはとんでもない作品だ。小中学校時代のこっ恥ずかしい思い出がリアルな感情で蘇ってくる。ジタバタとベッドの上を転げ回りたい。今風に言うならばエモい。これが私の山本崇一朗の「からかい上手の高木さん」を読んだ感想だ。この作品は不朽の名作といっても差し支えない。

 

からかい上手の高木さん あらすじ

 

 「からかい上手の高木さん」に深いストーリーはいっさいない。

 主人公の中学生男子の「西方」が、同級生の「高木さん」にひたすらからかわれるだけの物語だ。

 いや、西方は西方で高木さんになんとか反撃を試みようとするが、どんなに頑張っても西方は高木さんをからかうことはできない。これが毎回一話限りのエピソードで延々と続いていく。来週に続くような展開もない。

 おそらく人はこれをラブコメと呼ぶのだろう。けれど、それにしては微妙な距離を高木さんは保つ。西方はまるでお釈迦様の手の上で暴れる孫悟空のごとく、毎回空回りをする。

誰の心の中にも高木さんがいる

 

 「からかい上手の高木さん」を読んでいると、小中学生くらいの時のことを思い出す。

 私にも「高木さん」にあたる同級生がいた。「高木さん」と同様におでこを広く出している女の子だった。成績もとてもよかったように思う。私はたまたまその女の子と同じ委員会に入っていた。私は役立たずで、いつも何かしら手伝ってもらっていた。そしてからかわれていた。その時のことを思い出すとなんだか恥ずかしくなる。

 小中学生くらいの時は女子の方が圧倒的に成長がはやい。それは心も体も同様だ。女子が同い年の男子を手玉に取ることなどたやすいことだ。

 誰にとっても「高木さん」の思い出があるのではないんじゃないだろうか。この漫画を読んでいるといつもそんなことを思う。 

ジャンルとしては史上最大のファンタジー漫画

 

 誰の心の中にも「高木さん」がいるのではないだろうか、と書いた。けれど、そんな都合の良い話はない。私にとっての「高木さん」は決して自分ではそんなつもりではないけれど、極度に美化された改ざんされたの模造の記憶なんだと思う。その意味では「からかい上手の高木さん」は思い出を書き換える媒介物、いうなれば魔術と言って良いと感じている。つまりは圧倒的なまでのファンタジーだ。

 「からかい上手の高木さん」に漫画のジャンルを当てはめるとするならば絶対にラブコメなんかではない。心のやらかいどこかを刺激するファンタジーだと思う。

 そんなことを思いながら今日も私は「からかい上手の高木さん」を読む。

 

 

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