D'Angelo(ディアンジェロ)のライブを見た
2015年のサマソニ
2015年の夏もっとも衝撃的だったのはディアンジェロのライブだった。
2014年の年間ベストアルバム
話は2014年の12月初旬にさかのぼる。
いろいろな雑誌や音楽評論家、音楽ファンたちがそれぞれの年間のベストアルバムを発表する季節となっていた。
その中で頑なに自分の年間ベスト・アルバムを口にしようとしない音楽評論がいた。
元ロッキング・オンの宇野維正だ。
そしてその理由もはっきりとTwitter上で公言していた。
「まだディアンジェロの新譜を聴いていないから」
ディアンジェロの新譜「ブラック・メサイア」はウィキペディアによれば2014年12月15日にデジタル配信がなされた。
ディアンジェロというアーティスト
ここでディアンジェロについて。
ディアンジェロはアメリカ合衆国バージニア州リッチモンド出身。1974年生まれということは40歳代のアーティストということになる。
実は2014年12月に発表された「ブラック・メサイア」というアルバムが通算3枚目のアルバムとなる。
名盤と言われている2ndアルバムにして前作「ブードゥー」は2000年に発表されているためその間、14年間のインターバルがあったことになる。
ジャンルとしてはソウルにヒップホップを掛けあわせたようなニュークラシック・ソウル/ネオ・ソウルやファンクにカテゴライズされることが多い。またR&Bというジャンルで語られることも多いがウィキペディアによれば「自分のことをR&Bシンガーだと思ったことはない、いつだってR&Bなんてくだらないと思っていた」とインタビューにて語っているとのこと。
ディアンジェロはシンガー・ソング・ライターであり、ギターやピアノその他色々な楽器を演奏するかたわら、そのボーカルでは低音からファルセットまでを使いこなし聴くものに独特の印象を与えている。
「ブラック・メサイア」発売時の私にとってのディアンジェロ
ここで私個人の無知をさらす。
私は2014年末までディアンジェロという男についていっさい知識がなかった。
上に書いた「ディアンジェロというアーティスト」の項目はウィキペディアを見ながら必死に書いた。ネオ・ソウルが何なのか、ということもあまりよくわかっていない。
もちろん有名なアーティストではあるのでディアンジェロという名前くらいは知っていた。が、実はずっと黒人ギタリストだと思っていた。R&B的な超技巧派のギタリストだと思っていた。
今ここに書いていることにいっさいの冗談はない。本気でギタリストだと思っていた。おそらくは少しばかりメランコリーで美しい音色をしっとりと聴かせる、ちょっとばかり古典的なギタリストだと思っていた。
ところが。
ところが2014年末。私のTwitterタイムライン上ではディアンジェロがリリースするであろう新譜の登場に対する期待感が高まっていた。そしてその期待感の高まり方は、どう見ても古典的で美しい音色を奏でるギタリストの新譜に対するそれではなかった。
ディアンジェロ来日決定
ディアンジェロの新譜「ブラック・メサイア」が発売され、各所で大絶賛がされた。例えばピッチフォークではこのアルバムにたいして9.4点がついた。この点数は2014年に発表されたアルバムではピッチフォーク上では1位の点数ということになる。
大絶賛と言われても良い状態だった。発売時期が遅すぎたため、各雑誌や音楽ブログなどのベストアルバムに選ばれることはほとんどなかったが、好意的にこの約14年ぶりのアルバムは評価された。
年が明け、夏フェスの参加アーティストが発表されはじめると、2015年のサマーソニックにディアンジェロの出演が決定したとのアナウンスがあった。
ディアンジェロの来日公演ははじめてのことらしい。
音楽ファンの期待はひどく高まった。
サマソニ当日までの私にとってのディアンジェロ
私は基本的にサマソニやフジロックに出演する海外アーティストは7-8割くらいのペースで音源を聴く。はっきり書くとドン引きされると思うが少なくともアルバム一枚はだいたい買う。新人すぎてアルバムが未発表の場合はEP盤などを買う。
ディアンジェロについても、もちろんそうした。
私が購入したディアンジェロのアルバムは2ndの「ブードゥー」と発売されたばかりの3rd「ブラック・メサイア」の2枚だった。
実はディアンジェロのアルバムは私にとってピンとこなかった。2ndも3rdもどちらもだ。
世間で大絶賛されている内容について、私にはまったく理解できなかった。私と多くの音楽評論家、メディアには大きな温度差がある。そこで私はいくつかの仮説を立てた。
一つ目の仮説。ディアンジェロはソウル/ネオ・ソウルという文脈でのみ有効であり、私のようなUKロック専門の門外漢にとってはまったくもって価値のわからないものではないか。
二つ目の仮説。評価されていると言っても、私の知る限りごく一部での評価とも受け取れる。ピッチフォークなどで評価されていることも含めてある種マニア受けの評価なのではないか。そして私にそれを理解する能力は、ない、ということ。
三つ目の仮説。音源を聴くだけではディアンジェロを理解することは難しい。ライブというものを観ることによりディアンジェロを立体的に理解出来る。
四つ目の仮説。単なる過大評価。実のところ誰もディアンジェロが何者なのかわかっっちゃいない。その寡作さゆえに、期待と評価が雪だるまのように大きくなっただけ。
実のところ冒頭で名前を出した宇野維正と一部の音楽ファン数人からは狂信的とも言えるくらいの熱量に満ちたディアンジェロ賛歌が伝わってきた。しかし、それ以外の音楽評論家から伝わってくる絶賛はどこか、私には真実味のあるものには思えなかった。
ここでもやはり温度差があった。
過大評価なんだろうか、それとも私の無理解なんだろうか。
けれど、あの宇野維正が熱く、熱量多く語っているディアンジェロが過大評価とは思えず(宇野維正という人は決して自分の意向に沿わないものをTwitter上で何度も何度も繰り返しツイートしたりする人ではない)、おそらくは私の無理解なんだろうな、と思えてきた。そして可能ならば私もディアンジェロのライブを見て、その正体を確かめたいと思いはじめていた。
サマソニのタイムテーブルが発表された。
東京では日曜日、マウンテンステージの一番最後。20時40分から。マリーンステージのPharrell Williams(ファレル・ウィリアムズ)と少しの時間被っているものの、終演時間は22:00となっており、これは今年のサマソニすべての締めくくりといってよい配置だ。
サマソニと花火
こんなことを書きながら、実は私はディアンジェロのライブを最初から見ていない。
それには理由があって、ファレル・ウィリアムズの歌うDaft Punk(ダフト・パンク)のカバー「Get Lucky(ゲット・ラッキー)」が見たかったからということと、それからもう一点、この日は私にとって今年の夏フェス最後の日となっていたので、是非サマソニ@東京名物マリーンスタジアムの花火を見たかったからだ。
時間的にはおそらくディアンジェロのライブが始まった頃、ファレル・ウィリアムズはゲット・ラッキーを歌い始めた。カバーと言っても、もともとこの曲は彼がボーカルをとっているので、ある種本物ではある。
少しだけファレル・ウィリアムズについて言及しておくと彼は一流のエンターティナーだった。そして、ディアンジェロの開始時間が通常のタイムテーブルより大きく後ろにずれ込んでいる理由は、ファレル・ウィリアムズがディアンジェロとは時間を重ねないでほしいと依頼したらしいからだ。少なくともクリエィティブマンの清水代表はそのように語っている。ファレル・ウィリアムズに感謝。
私のお目当てである「ゲット・ラッキー」が終わり、ファレル・ウィリアムズのおそらくはセットリスト上ラストの曲であろう「ハッピー」の演奏が始まった。けれど、申し訳ないが私はこの曲をマリンスタジアムで聴くわけにはいかない。
ディアンジェロを目指して、幕張メッセのマウンテンステージへと急いだ。
その道中、私の後ろで大きな音がした。花火だ。
サマソニで最後の花火がどどーんと鳴ると夏が終わったと私は感じる。サマソニへ来たならば可能な限り日曜日はこの花火が見たいなといつも思っている。
こうして私はディアンジェロのライブ以外何も思い残すことのない状態となった。
ところでここまで読んでいただいた方にはわかると思われるが、私はディアンジェロというアーティストについて、この時点で疑念を抱いている、それはつまり過大評価もしくは、一部のマニアの方にしか理解の出来無い存在という考察、といった前提であることをご承知いただきたい。
ただし、心境としては最後の最後に見るライブが外れであったとしても、それはそれで構わないというわりと素直な状態であったことも、あわせてお伝えしておきたい。
ディアンジェロ・アンド・ザ・ヴァンガード
私はとにかくマウンテンステージにたどり着いた。もちろんすでにライブは始まっていた。そして多くのオーディエンスが集まっていた。
実はここで一つ説明を忘れていたことがある。
それは今回のアルバムの名義は「ディアンジェロ」ではなく正確には「ディアンジェロ・アンド・ザ・ヴァンガード」だということ。「彼」ではなく、「彼とそのバンドたち」という意味になる。実はこれがライブを見る上で重要な要素となっていた。
とある音楽評論家はこんな表現をした。「ディアンジェロ・アンド・ザ・ヴァンガードが演奏を始めると最初の一音からすべてが違っていた」。私は最初から見ていないのでなんとも言えないが、さすがにそれは言いすぎだ。
正直に言ってしまえば、ファレル・ウィリアムズの大ヒット曲「ハッピー」を捨ててマウンテンステージにたどり着いた私にとっては、確かにリズムはとても特徴がある気がするし、演奏もよい、けれど、こんなもんなのか。というのが最初の感想だった。
ただし、その時にはすでにマウンテンステージは不思議な一体感によって包まれていた。あとから遅れてやってきた私を何か寄せ付けないオーラというかバリヤーみたいなものがオーディエンスから立ち込めていた。踏み込んではいけない。そんな空気を私は感じていた。
マウンテンステージには前方エリアと後方エリアを分ける柵がある。私は前方エリアに入れる境目くらいの場所に陣取った。おそらく遅れて来た者が、最初からディアンジェロを見るためにいたオーディエンスにぎりぎり邪魔にならないくらいの位置取りではなかっただろうか。とにかく私は、もともといるオーディエンスたちに圧倒されてそれ以上、前に進めなかった。
ディアンジェロの2日前。私はこの同じステージでThe Prodigy(ザ・プロディジー)を見た。彼らは圧倒的なまでにパンクで、私は前方エリアにいたがアッという間にボロボロになった。ザ・プロディジーのオーディエンス達は分かりやすいほどに肉体的であり、モッシュを楽しみ、ある種の乱暴さを伴い、そこには私のような虚弱体質の逃げ場はなかった。
ディアンジェロのオーディエンスが出すオーラはザ・プロディジーのそれとは全く違っていた。それぞれ自分たちで気ままな楽しさを追求しているかのように見えた。おのおの好き勝手にリズムをとり、この瞬間を楽しんでいるようだった。もし私が乱暴に彼らを押しのけて、かきわけて前に進んだとしても、彼らは何とも思わなかっただろう。
ディアンジェロとリズム
おそらく私が到着した時に演奏されていたのは3曲目の「Betray My Heart」。
自分の場所を確保した私はディアンジェロ・アンド・ザ・ヴァンガードの演奏を聴きながらまわりのオーディエンスがそうしているように、自分なりのリズムを取っていた。
とにかく、マウンテンステージにたどりついて私が理解したことはオーディエンスがひどく楽しそうだということ。そして、やはりディアンジェロはリズムなんだなあ、ということ。
この記事の前半でディアンジェロの音源を聴いた時に私にはピンと来なかったと書いた。でも、iPhoneでこのアーティストを聞いている時に思ったことは、おそらくはディアンジェロに新規性があるとするならば、きっとリズムなんだろうなあということ。
実際にライブを目の当たりにして、演奏が良いことも理解した。雰囲気も良い。確かにすべてにおいて素晴らしい。それでも、正直に言えば「このジャンルが好きな人達にとってはとても素晴らしいアーティストなんだろうなあ」というのが、ここまで、つまりセットリスト的には4曲目「Spanish Joint」5曲目「Really Love」まで進んだ時の私の感想。
確かに素晴らしかった。間違いない。
実は私は少しでも大きな音で聴きたくてちょっとづつ前に進んでいた。
そして次の曲で衝撃を受ける。
こぶしをつき上げろ、もしくはロックの再発見
6曲目に演奏された「The Charade」。実はこの曲は2014年に出たニューアルバムでは3分ちょっとの曲で、楽曲的には地味な部類になるのではないかと思う。
けれどライブでは全然違った。
ギターを抱えて出てきたディアンジェロはステージの真ん中でこぶしを突き上げろとオーディエンスに要求した。私はもちろん喜んでこぶしを突き上げた。
ディアンジェロの熱い気持ちでこの曲は始まった。
楽曲の出だしは、熱いディアンジェロとは裏腹に地味だったかもしれない。けれど、曲の中盤、気がつけばディアンジェロを含めて3人のギタリストが並んで、とんでもない爆音をだしていた。しかもそのうち一人はフライングブイだ。私は思った。「こんな曲ディアンジェロのアルバムに入っていたっけ?」それはさながら、My Bloody Valentine(マイブラッディ・バレンタイン)のノイズビットのような、Spiritualized(スピリチュアライズド)の奏でる轟音のような、Ride(ライド)のシューゲイズタイムのような時間だった。
さらに私は思った。「これはディアンジェロのラストの曲なんだろうか」後から振り明けって冷静に考えれば、時間的にそんな訳がないことはわかる。けれど、そのあまりにもロック的で圧倒的な演奏はライブのラストシーンを飾るような内容にしか思えなかった。その時の私にはそうとしか考えられなかった。それくらいに熱く、ロック的だった。
この時間はひどく長く続いたように、あの時には思えたが、今から考えるとほんの4~5分の出来事だったと思う。
あれはまさしくロックそのものだった。
EDMとダンスミュージックによりフェスにおいて日陰者になりつつあるギターロックが、この時ディアンジェロにより再発見された、いや、奪還された。
ロックがディアンジェロにより奪還されたというのはもちろん冗談だが、それでも私の気持ち的にはそれくらいにインパクトのある演奏だった。
とにかく私はあっという間に最高潮に達した。
単純なおっさんである。
ファンク
私はファンクという音楽が何なのか全くわかっていない。
ヴォーカルはプリンスのように独特なファルセットをシャウトして、マイク片手にオーディエンスを煽りまくる。躍動感が有り、黒人的なグルーヴィなリズムに支えられていて、果てしなく楽しい楽曲。そんなイメージだろうか。
私は6曲目の「The Charade」で最高潮に達したと書いたが、それは幻想だった。ディアンジェロは自ら作った最高到達地点をあっさり塗り替えてくる。そしてそれはファンクナンバー2曲によりもたらされた。
7曲目「Brown Sugar」。この日、唯一1stアルバムから演奏された曲。
ディアンジェロがクラップを要求すると、「Brown Sugar」が始まった。
マイクを片手にステージのあっちこっちを熊のようにのそのそ歩き、ディアンジェロは、マイクを何度も何度もオーディエンスの方につきだし、あるいは何度も何度もオーディエンスの方を指差し「歌え、歌え」と要求した。
もちろん、オーディエンスはうまく歌えるはずがない。けれど、そんなことはディアンジェロにとっては瑣末なことだった。「どうしたんだい、聴こえないぜ?」という表情をするともう一回「歌え」と煽った。若干反応がよくなるとディアンジェロ楽しそうにダンスをした。
音がファンキーすぎてディアンジェロの要求には私たちは応えることができなかったけれど、充分に楽しすぎた。
8曲目「Sugah Daddy」。これは7曲目の「Brown Sugar」にも言えることだが、ひどくファンキーでアルバムとは全然違った。いや実は違わないのかもしれないけれど、アルバムで聴く「Sugah Daddy」は若干上品で、ファンクから少し遠い距離にあると感じていた。けれどこれがライブになると、王道ファンクナンバーそのものではないか。
時間的におそらくこれがラストになるんだろうな、ということはわかっちゃいたけれど、これがすごい。最初ピアノを弾いていたディアンジェロが、中央のマイクの前に現れてからの盛り上がりが尋常じゃない。
いったん演奏が終わりディアンジェロが中央でドヤ顔をかます。その後バンドのメンバーにどうする?オーディエンスにこれで終わっとく?といった表情をするんだけど、もちろんここで終わるなんてないよ。お客さん大歓声。それを受けてディアンジェロもまだまだやるぜってポーズを取り、そして叫ぶ。なんだこれ。さっきよりさらにマウンテンステージのボルテージが上がる。
ボルテージが上がるとディアンジェロがステージを降りてオーディエンスの目の前までやってきてさらに客席を煽る。もうとにかくファンキー。
最後の最後に「アリガトッ」と叫ぶとディアンジェロは去っていった。
長いアンコール待ちの時間
ディアンジェロのステージ本編が終わった。
気がつけば お客さんが増えていた。サマソニの他のステージでのライブがすべて終わったんだろう。今このフェスで演奏が待たれているのでディアンジェロだけとなった。
アンコール待ちのお客さんでマウンテンステージはあふれていた。
私の位置からは誰も帰ろうとはしない。当たり前だ、あんな最高のファンクを見せられて、こんな中途半端な状態で帰るわけにはいかない。
10分くらいだろうか。アンコールの拍手は鳴り止まなかった。かなり長い時間だった。それでも、もちろん誰もその場を動こうとはしない。
もう一度ディアンジェロ・アンド・ザ・ヴァンガード
ステージにメンバーが戻ってきた。
最初はドラムソロから。
そして最後の曲「Untitled (How Does It Feel)」のイントロが流れた。
けれど、どういった演出なんだろう。ディアンジェロは「フッ」という吐息を吐くだけで歌いださない。これを3-4回くりかえしただろうか。その度にオーディエンスから笑いと歓声があがる。ついに5-6回目くらいにやっと歌い出した。
ちゃんと歌い始めるだけで大歓声。
ディアンジェロは愛されている。何かをするだけでいちいち大歓声がわく。
アンコールで演奏されたこの「Untitled (How Does It Feel)」は本当に素晴らしい出来で、それは楽曲だけではなく、演出そのものがほぼ反則級でディアンジェロがバンドのメンバーとの間に、いかにかけがえのない信頼関係を築いているのかということをオーディエンスに伝えるものだった。
「Untitled (How Does It Feel)」は曲の中盤からあとはほぼ、「How Does It Feel」というコーラスだけになる。
そうすると、どうしたことだろう。アンコールの最初にドラムソロをかましていたドラマーが立ち上がりステージ中央にやってくるではないか。
ディアンジェロとガッチリと握手をして、ハグをしたかと思うとドラマーはオーディエンスに手を振り退場していった。
How Does It Feelというコーラスが繰り返される中、次に、サックスとトランペット(だと思う)にスポットライトががり一礼をした。やはり彼らもステージの中央まで来るとディアンジェロとがっちりと握手をしたあとにステージを去った。
ディアンジェロはいつの間にかピアノの前に座っていた。
フライングブイのギタリストにスポットがあたった。彼はギターソロを弾くとやはりディアンジェロと握手をしてからステージから消えた。
もう一人のギタリストもステージを後にした。
コーラスのメンバーがこのバンドには3人いる。一人は女性だ。一人ずつ、How Does It Feelというコーラスをしたあとにステージを順番に降りていった。女性コーラスは中央のピアノのところまでいき、ディアンジェロにハグとキスをしてからステージを降りた。
キーボードはにっこりと笑顔でステージをかけおりていった。
最後にディアンジェロの他にはベースが残った。ベースもがっちりとディアンジェロと握手をしてステージからいなくなった。
ついに最後にはディアンジェロだけが残った。演奏する楽器はディアンジェロのピアノだけ。ディアンジェロはもう一度、いや何度も何度もHow Does It Feelと歌った。そしてオーディエンスに一緒に歌うように呼びかけた。
How Does It Feel.
How Does It Feel.
この日このステージでは何回How Does It Feelと歌われたんだろうか。
最後にもう一度、ディアンジェロは「アリガトゥ」といい、このステージは終わった。
いやそれだけではない。サマソニも、今年の夏フェスも、あるいは夏そのものも、とにかく色々なものが終わった。
ディアンジェロ、私なりのまとめ
ディアンジェロって正直どうよ?過大評価なんじゃない?と少し舐めた気持ちで参加したサマソニ@東京でのライブは、結果、その圧倒的なさまに度肝を抜かれた。
ライブがあまりにも圧倒的で、もう本当に圧巻で何かと比較することなんていっさいできないと感じた。それくらいに孤高の存在だった。
この衝撃はあまりにも大きなもので私はしばらくの間(おそらく一週間くらい)音楽を聴くということをやめてしまった。ここからさらに音楽を上書きしたいと思わなかったし、もうしばらく音楽を聴くという行為はいいかな、と思った。
もし仮に、サマソニあるいはフジロックも含めた夏フェスで聴いたアーティストの中からベストを言えと言われれば、もちろんディアンジェロになるわけだが、このサマソニ2015のディアンジェロは殿堂入りさせてしまって、その他のアーティストや出演者から何がよかったかを考えたいというのが正直な気持ちだ。
それくらいに何もかもが違ったし、同じ土俵で考えるということがそもそも違うように感じていた。
Twitterやブログでも、サマソニおよびその直後に行われた単独公演の感想として、絶賛の嵐となっていて、おそらく見ていない人たちにとっては懐疑の目を向けられている節もあるとは思うけれど、少なくともファンクやソウルを通過していない私にとっては衝撃そのものでしかなかった。
とにかく、そういった大絶賛の声にたいして、ああ、まったくもってその通りだったよと言う回答しか、私は持ちあわせていない。
もちろん私がファンクだのネオ・ソウルというかソウルそのものに知識がなく、これがこのジャンルにおいては一般的なものだよ、ということなのかもしれないけれど、でもここまで圧倒的なものはそうそうない、というのが私の偽らざる心境だ。
ディアンジェロとは結局なんなのか
ディアンジェロとは何だったのかを考えた。
考えをまとめればまとめるほど、それはつまり「愛」だったのではないかと思う。
おまえは何を唐突に血迷ったことを言っとるんじゃコラ!と思われるかもしれないが、私が最終的に行きついた場所は「愛」。
この日のステージで私が見せられたもの、感じ取ったものはディアンジェロがいかにバンドのメンバーに愛され、オーディエンスに愛され、逆にバンドメンバーに信頼を置き、オーディエンスを大切に思っているか、ということを具現化した内容だったように思う。
そんな信頼と愛という土台の上に色々な演奏技術なり演出があって成り立っているステージなんだなあと。
つまりは私の受けた衝撃の正体は「愛」ってことで。
そして、そのいろんな「愛」をギューっとディアンジェロが絞って出したものが、彼の音楽そのものなんだ。という結論。
最後に。
ディアンジェロはオリジナルアルバムもよいけれど、ライブ盤の方がその真価を発揮するような気がするので、可能ならばライブ盤が出ると嬉しいな、と思った次第であります。