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ズンドコベロンチョとFacebook

 

Facebookフェイスブック)ってなんなんですかね?」

  不意をつく問いかけに私は言葉を失った。

 
  

 それは休憩中の出来事だった。

 問いかけてきたのは私の上司。この方はどんな時も私に対して丁寧な敬語で話す。私のような吹けば飛ぶようなミジンコの如き存在にきちんとした態度で接する意味など合理的に考えればないと思われるけれど、ともかく私の上司は一般的な教養と節度のある常識的な態度で私に問いかけをしてきた。Facebookとは何なのかと。

 この人がFacebookの事を知らないわけがない。

 いや、それどころか普通に私の上司はFacebookを利用している。

 つまりこの場合Facebookとはマーク・ザッカーバーグハーバード大学在学中に立ち上げたソーシャル・ネットワーク・サービスであり、今や全世界で10億人以上のユーザーが利用しているとか、そんな答えを求めているわけではないはずだ。

 もっと冷静に考えればFacebookへ広告を出した結果について先々週の会議で議題に取り上げられていた。

  おそらくは問いかけの内容に深い裏の意味が隠されているに違いない。けれど、どんなに考えても、その裏の意味を考察することが出来ず、私は冷や汗をかいた。

 それは禅問答のような哲学的な回答を求められているのだろうか。それとも、私にとってのFacebookの存在価値を答えるべきなのだろうか。

 

「質問の意図をつかみかねますが…」

 

 仕方がないので私は正直に問いかけの意味がわからない、と白状した。

 

「いや、SNSとかメールとか色々あるじゃないですか。TwitterとかMixiとかLINEとか。もっと言えばインスタグラムとか。その中でわざわざFacebookでコミュニケーションを取る意味って何なんだろうかなあ、と思って」

 

 SNSの使いどころの話をしているんだろうか。 Facebookの特徴は実名登録となっており、実名であることを前提にコミュニケーションを取る。もっと言えばTwitterやインスタグラムのようにネットで新たなる出会いをもって友達リクエストを申請することを運営は良しとしていない。あくまでも普段の交流の延長線上にFacebookは存在している。けれど、もともと知り合いであることを前提に利用されているネット上では非公開でやりとりされているLINEやメールともやはり何かが異なる。

 結局、私はここでは上司からの問いかけにお茶を濁した返答しかできなかった。

 

 私はこの時、何年か前にリメイクされ放送されたドラマのことを思い出していた。

 それが放映されていたのは土曜日の夜だったと思う。フジテレビ系列の「世にも奇妙な物語」の中の一つの物語「ズンドコベロンチョ」のことだ。

 「世にも奇妙な物語」はタモリストーリーテラーをつとめ10分から20分程度の短編ドラマをオムニバス形式で放送しているドラマであり、90年代初頭にはレギュラー放送がされていた。以降は特別編として思い出したように新作が発表される形式となった。

 「ズンドコベロンチョ」は初期のレギュラー放送時代に放映されたうちの一話ということになる。

 その20年ほど前に放映されていた際に主人公を演じていたのが草刈正雄となる。そう、昨年の三谷幸喜が脚本を書いたNHK大河ドラマ真田丸」の前半戦では実質的な主人公であった真田昌幸役のあの俳優だ。

 

 「世にも奇妙な物語」のうち過去作で人気の高かったものを選出し、リメイクしたもののうちのひとつが今回といっても数年前に放映された「ズンドコベロンチョ」となる。

 「ズンドコベロンチョ」は有名な作品だし、今更感もあるが一応あらすじを説明すると----

 知識量/情報量なら誰にも負けないと自負し、仕事の上でも必ずしも一般的ではない最先端かつ難解な用語を次々と操るエリートサラリーマン(リメイク版ではIT会社社長)が主人公。そして自分の操る言葉を理解できない部下たちを勉強不足であり、無能と蔑む。ところがある時そんな部下たちの会話から「ズンドコベロンチョ」という謎のキーワードを耳にする。その会話の中から誰もが知っている言葉として「ズンドコベロンチョ」は登場する。

 日常の中で無能扱いしていた部下から「ズンドコベロンチョ」について同意を求められた主人公は思わず知ったかぶりをしてしまう。その場はなんとかやり過ごしたものの、主人公はその後色々な方法で慌てて「ズンドコベロンチョ」の意味するものを理解しようとする。けれど、どんなに頑張っても調べても抽象的であったり、説明や使用法に共通性がなく、その言葉の意味するところに辿りつけずにいた。

 次第に「ズンドコベロンチョ」はどんどんと影響力を増していき、ついには大流行語となる。けれど、そんな中主人公は「ズンドコベロンチョ」の意味するところをつかめずにいる。

  そして主人公は「ズンドコベロンチョ」の大きなプロジェクトのリーダーに選ばれる。がついに知ったかぶりでは対応できず「ズンドコベロンチョって何!?」と皆のまわりで口にする。それにより主人公の権威は失墜する。

 

 「ズンドコベロンチョ」という言葉を調べる部分が、初回の放送版では図書館などで地味に本や過去の雑誌を見るなどの作業だったことに比べ、今回のリメイク版ではググったり、iPhoneのSiriに各国の言葉で尋ねてみたりと今風のアレンジが加えられていて少し楽しかった。

 

 話を戻そう。ズンドコベロンチョFacebookについてだ。

 私たちは時として分かった風な口をきく。それは「ズンドコベロンチョ」の主人公のように決して知ったかぶりをしようと意図してのことばかりではない。

 わかっていると勘違いしているにすぎないんだ。

 たとえば上司にFacebookってなんなんですかねえ、と質問を受けた私は石のように固まってしまい、何の返答もできないでいた。

 それは知らない、ということとどれほどの違いがあるんだろうか。

 

 私はFacebookについてびっくりするほど知らない。いや使ってはいるけれど、それでもFacebookについて不意に質問をされた時にはいっさいの言葉を失うくらいには知らない。

 いや、それならばTwittermixi、インスタグラムについて知っているのかと問われると困るけれど、私が言いたいのはそんなことじゃない。

 

 私もなんだかんだでFacebookを使っている。リアルな繋がりのある知り合いとも何人もつながっている。けれど、あれは、Facebookの中にいる彼らは本当に私の知っている彼らなんだろうか。いつもと違う言語を使う違ったナニカに思える。

 Facebookの中の彼らはきっと私の知らないズンドコベロンチョつまりズンベロの事を詳しく知っていそうだ。彼らは、Facebookの中の彼らはズンドコベロンチョを知らない私のことを軽蔑するだろう。

 いやリアルで直接会う私の知人たちはズンドコベロンチョを知らない私を軽蔑しない。むしろ面白い人としてあつかってくれる。この違いは一体何なんだろうか。

 

 Facebookには謎のフィルターがかかっている。

 そんなことを思った。

 Facebookで醸し出されるコミュニケーションはズンドコベロンチョにどこか似ている。

 ズンドコベロンチョの正体はFacebookかもしれない。

 

 

 

 ドラマでのズンドコベロンチョは最後の最後までズンドコベロンチョが何を意味するのか、その答えの説明はなされない。もちろん恐らくは脚本を書いた北川悦吏子ですらズンドコベロンチョが何者であるかを想定していないと思う。

 

 ズンドコベロンチョに答えを求めてはいけない。ネタバレを求めてはいけない。もちろんズンドコベロンチョFacebookではない。ズンドコベロンチョは結末を楽しむものではない。

 ズンドコベロンチョはその過程を楽しむもの。ズンドコベロンチョとは何かを求め、彷徨い、七転八倒する様でしかない。

 それが私の至った結論。

 

 

 

 

 

 

 

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