ロッキング・オン天国/増井修
あらすじ
本書「ロッキング・オン天国」は90年代、UKロックを中心に据えて音楽雑誌ロッキング・オンの発行部数を2倍に伸ばした名物編集長・増井修の激闘の思い出話である。
ロッキング・オンとは増井修そのものだ。
本書「ロッキング・オン天国」は増井修のすさまじい序文から始まる。
「ロッキング・オン時代のことを書け」という残酷な依頼はこれまでにもずいぶんあった。どうしてそれが残酷かといえば、「今はろくでもない一般人以下の生き物なんだから、黄金の時代を書いたらさっさと死んでもらって構わない」とするニュアンスを言外に含んでいるからだ。これほど酷い話があるだろうか。家の整理整頓などをしつつ現在も立派に暮らしている者に対して、「お前ははっきり終わっているが、一時の輝きをそれがたとえ偶然と勘違いの産物であったとしても、真に受けた往時の読者のために追認だの是正だのしてから死んでくれ。それも発案の動機は自分達の商売のためだがな」。そう言っているのに等しいのだから。
増井修は97年に本誌ロッキング・オンと新しく創刊されたばかりの雑誌BUZZ(バズ)の編集長を兼任したかと思えば電光石火の早業でその立場を降り、その後、唐突にロッキング・オン社を解雇される。解雇が不当解雇であるとして、会社相手に裁判を起こし、結果として名誉は回復されたものの、以降の増井修はソニー系の洋楽雑誌でスーパーバイザーを務めたり、幾つかの雑誌で編集に関わったり、漫画に関する本を出版したり、ブログを書いていた時期もがあったが、ロッキング・オン時代のような大きな成果、増井修の言葉を借りれば黄金の時代を築くことは出来ずに、ひっそりと出版の世界からも、ウェブの世界からも消え失せてしまった。
2016年の初頭においては増井修はネット上に存在しないも同義だ。いや同義だった。
そもそもの話として増井修がロッキング・オン時代の話を語ることは、その経緯から永遠のタブーとなるかと思われたが、意外なことに、こんな本があっさりと出版された。
あっさりと、と言いはしたものの増井修が編集長を降りてから20年近い月日が経過している。
ロッキング・オン天国の中では90年代の話だけではなく、79年に増井修が在学中にロッキング・オン社の新卒採用、しかもなんと第一回目の採用に応募し、新入社員の時代を経て編集長となり、ロッキング・オン誌とUKロックの黄金の時代を過ごし、そして編集長を退任するまでの期間を語っている。
ストーン・ローゼズ、オアシス、ブラー、ニルヴァーナ
表紙の帯にずらずらとアーティスト名がある。これは90年代のUKロック/オルタナティヴ・ロック/グランジ/その他ロックなどを中心に、ストーン・ローゼズ、オアシス、ブラー、スウェード、ガンズ&ローゼズ、ビースティ・ボーイズ、マニック・ストリート・プリチャーズ、ポール・ウェラー、レニー・クラヴィッツなど本文中に登場したアーティストたちの名前が記載されている。
ただし、きちんと本人達とのエピソードからその評価まで語られているアーティストもいれば、ペット・ショップ・ボーイズのように音源の売れ行きから、雑誌の売上増を期待して表紙にしたが、ペット・ショップ・ボーイズのファンたちはディスコに行ってしまい文字情報を期待していなかったので本誌の売り上げには貢献しなかった、というようなものまで様々だ。
増井修は自らを「ストーン・ローゼズ極東スポークスマン」と自称していたが、ストーン・ローゼズについてかなりページを割いて語られている。
特に私個人が印象的だった点は、解散に至る経緯で、言ってしまえばギターのジョン・スクワイアとドラマーのレニの対立だったと書かれている。これはまあ、ローゼズの2ndアルバムを聴けばある種分かる話ではあるけれど、再結成後、フジロックで「アイ・アム・レザレクション」を演奏した際に、あの曲の後半パートはボーカルのイアン・ブラウンとベースのマニの存在が希薄になり、ジョン・スクワイアとレニの2人舞台となった瞬間、とても感慨深い気持ちとなったことが思い出される。
ボンベイ・ロール事件
増井修が編集長を務める90年代途中までのロッキング・オンとは本当にひどい雑誌で、わりと平然と嘘が書かれていた。それはもちろん、読者もそんなことが当たり前だと思って節もあったし、嘘吐きというものが、メディアに平気で嘘をのせて喜んでいるということが、90年代の、そして時代の気分としてあったんだと思う。
おそらくもっとも印象的だったのはボンベイ・ロール事件ではないかと思う。事件と言ってしまうと、ちょっと違うかもしれないけれど、今でも90年代のロッキング・オンと言えばボンベイ・ロールだよね、と懐かしんでいるロック・ファンは多いはずだ。
ボンベイ・ロール事件とはなんなのか、という話だけれど、オアシスのリアム・ギャラガーが「(エラスティカの)ジャスティーンにいつかボンベイ・ロールぶちかましてやる」と発言したことを増井修が喜々として取り上げ、おなじくマンチェスター出身のシャーラタンズのメンバーに確認をとったところ、いやそれは「シャーク・サンドウィッチ」だ、とか、スウェードにも聞かねばフェアじゃないとかで、なぜフェアじゃないのかは私にはさっぱりわからないけれど、スウェード曰くは「パール・ネックレス」だそうで、基本的にはいつもそんな風に下世話に盛り上がっていた。
本は表紙に文字を入れるとすごく売れる
ところで「ロッキング・オン天国」には、もっと驚きな内容として増井修が編集長の修行時代のロッキング・オンについての記述だ。なんと初期のロッキング・オンは内容と表紙が一致していなかったそうだ。これだけではなんのことかさっぱりとわからないと思うけれど、たとえば、表紙をデュラン・デュランにすると雑誌の売れ行きが良くなったらしい。しかしデュラン・デュランが表紙になっていても内容には1行たりともデュラン・デュランは登場しない。そんなことが当たり前にロッキング・オンは発刊されていた。
ある時、ブルース・スプリングスティーンが来日した際に、彼を表紙にして「来日記念インタビュー」という文字を入れたら、この号はバカ売れしたとのこと。そう、それまでは表紙に文字なんて入っていなかったそうだ。
「本は表紙に文字を入れるとすごく売れる」ということをこの時初めてロッキング・オン編集部は知ったらしい。
そんな時代からすれば90年代ロッキング・オンは隔世の感すらある。その意味においてはきちんとして音楽雑誌だった。
カート・コバーンが亡くなれば過去記事まで掻き集めてカート・コバーン追悼号をだすくらいにはパワーアップしていた。
初期のロッキング・オン
ロッキング・オンは元々渋谷陽一が中心として隔月発行されていたロック同人誌のだった。ロック喫茶「ソウルイート」の常連達の文章を集めて作ったものが創刊号になる。
80年代途中までの表紙と内容が一致していない頃の編集長は、つまり初代編集長は渋谷陽一だった。渋谷陽一が大学在学中に立ち上げたロッキング・オンという雑誌を発行するための集まりは、もちろん素人集団で、雑誌づくりのプロは一人たりともいなかった。
ロッキング・オン誌初期の人気コンテンツは読者投稿と、架空インタビュー、スタッフ対談などだった。特に架空インタビューは今の時代から考えるとひどいもので、ジミー・ペイジだのジョン・レノンだのが、インタビューを受けたら、こんな答えをしてくるんじゃないかというものを、平然と記事として載せていた、とのことだ。
雑誌が軌道にのる見通しがたつと、渋谷陽一はロッキング・オンを会社組織にしたり、海外誌からの記事を積極的に載せたりするようになり、組織や紙面を改革していく。
渋谷陽一に編集者としての才覚があったかどうかは、私には判断がつかないけれど、少なくとも雑誌と組織を的確に次のステージへと引き上げていった人物ということになる。経営者として有能であることに間違いはない。
前述のとおり、渋谷陽一編集長時代のロッキング・オンはまだまだ未完成で荒削りの音楽雑誌だった。
音楽雑誌「的」な作りだったロッキング・オンを以前よりずっときちんとした形で音楽雑誌としての体裁を整え、売り上げ、影響力を格段に引き上げる役割をになったのが増井修ということになる。
増井修がロッキング・オン誌の編集長となることで、ロッキング・オン社はまたひとつステージを上げる事に成功した。
マニック・ストリート・プリチャーズ
ロッキング・オンあるいは増井修に対する私の個人的な思い出話となるけれど、やはりマニック・ストリート・プリチャーズというウェールズ出身バンドについては鮮烈な印象がある。彼ら4人組のデビュー当初の言動とファンの熱さには独特のものがあった。
マニックスはデビュー時に「アルバムを1枚だけとって世界中で1位を取って解散する。1位じゃなくてもとにかく解散だ」と言い放ったけれど、もちろん彼らはそこでアルバム1枚きりで解散することもなく、いまだにリッチーが抜けてもバンドとして活動を続けている。
一部の熱狂的なファンはデビュー直後の解散宣言を信じており、宣言と異なり現役を続けるマニックスに対して戸惑いを隠せなかった。
増井修はマニックスを擁護しつづけたが、これが読者のカンに触ったらしく増井修名指しの批判投稿文を受け取ることとなる。
名指しの批判といえば、増井修はオアシスの2ndアルバムのライナーノーツを書いた際に、冗談で途中までシングルの解説を書き、やはり大批判を受けている。それは読者からの投稿で本誌に送られてきた抗議文のようなものだったが、増井修は喜々として送り主に了解をとり紙面にのせていた。
ところでひとつ不思議な事がある。
当時、ロッキング・オンは編集長・増井修、副編集長・田中宗一郎という体制だったはずだが、その田中宗一郎に関連する記載がほぼない。欄外の会社発26時の中にタナソウとタナヒロに関する部分で若干登場しているがほぼそれくらいしか見当たらない。
雑誌は編集長のものであり、その意味では90年代ロッキング・オンは増井修そのものだった。そこに間違いは一切ない。けれど、あの時代のロッキング・オンには増井修の熱血主義とともに、タナソウの怨念みたいなものが同様にこびりついていた。
増井修がタナソウについて語るというのは変な話ではあるけれど、そのおかげかこの書ではレディオヘッドについては取り上げられていない。
レディオヘッドについて取り上げられていないというよりは、この「ロッキング・オン天国」では、ローゼズのセカンドアルバム以降のことについては何も語られていないに等しい。
もちろん渋谷陽一もしくはロッキング・オン社と起こした裁判のことについて何かが書かれているということは一切なく、音楽についても90年代ブリット・ポップ・ムーヴメント以降のことについても何も触れられていない。ただ先ごろなくなった、デヴィッド・ボウイの死とその最終作については若干ふれられていた。デヴィッド・ボウイの評価が意外と低いことにその追悼文を読んで思い知らされた、というような内容だった。
とにかくローゼズのセカンドアルバム以降で語られているのは漫画と熱帯魚のことのみだ。
スウェードは世界を堕落させてしまうのか?
1993年の7月号スウェードのブレット・アンダーソンが表紙のロッキング・オンのことを私は印象的に覚えている。
ファッション雑誌のようにブレット・アンダーソンがポーズを決め、煽り文句は「スウェードは世界を堕落させてしまうのか?」だった。
あまりのブレットのカッコよさに私はノックアウトされ、それまでは特集アーティストや表紙などにより買ったり買わなかったりしていたロッキング・オンをこの号より毎号ずっと買うようになった。
以降90年代のロッキング・オンは一冊を除いてすべて買っていたと思う。
一回だけ買わなかった際の表紙を飾ったアーティストはメンズウェア(96年2月号)。ブリット・ポップムーヴメントは第二世代となり、オアシス・ブラーの狂騒から少し時が経過しもう少し小粒なアーティストが多くデビューしていた。メンズウェアはその代表格だっただろうか。
当時ブリット・ポップの新人よりもエレクトロニカ/ダンス、テクノを中心としたロック・アーティスト例えば、プロディジーであり、アンダーワールドであり、ケミカル・ブラザーズ、ファットボーイ・スリムあたりに、勢いがつきつつある時期だったように思う。
その時にいくらなんでもメンズウェアはないだろう、というのが私の正直な感想だった。
ローゼズセカンド以降の増井修はリリース直後はともかく今思えばテンションがズルズルと下がっていたように思う。また新しいアーティストの発掘についても保守的になりつつあったように感じていた。
ブリット・ポップ興隆期の裏で台頭しはじめていたエレクトロニカ/ダンス系アーティストは、本誌では後にBUZZの編集長となる鹿野淳により語られる事が多かった。94年から95年くらいのことだろうか。
エレクトロニカ/ダンス系アーティストその他音楽に限らない振れ幅の大きなジャンルは97年に創刊されたBUZZの中で多めに語られることになる。
このBUZZの創刊が増井修の最後のロッキング・オンでの大きな仕事となる。
思春期の終わり
増井修がBUZZを立ち上げ、そしてロッキング・オン社を退社した97年は、第一回のフジロックが開催された年でもある。
それから数年後、ロッキング・オン社はご存知の通りフェス事業に力をいれ、事業の大きな柱に育てることになる。
増井修の採用(初めての新卒採用)、編集長への登用とそれぞれの段階で事業としてのステージを上げていき、増井修の退社をもってさらにもう一段階、ロッキング・オン社はステップを踏んだ形となっている。
音楽雑誌としてのロッキング・オンは増井修が編集長を降りる直前から陰りを見せはじめ、それは編集長のテンションダウンもしくは時代のトレンドを捕まえられなくなったことが原因というよりは、今思えば、業界の構造変化が顕在化しはじめたことが直接の影響だったと思う。
理由はともかく名物編集長の降板によりロッキング・オンは黄金の時代に終止符を打つこととなる。
「ロッキング・オン天国」は90年代のロック懐かし話でもあり、同時に成長していくベンチャー企業の興隆期の物語にありがちな、楽しさと、物悲しさをあわせた思い出話ということになる。
もう一度繰り返すけれど、ロッキング・オンとは増井修のことだ。