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殺戮にいたる病 /我孫子武丸

最初に

 本書「殺戮にいたる病(さつりくにいたるやまい)」は美しくも残酷なミステリー作品の名作である。何が美しく、何が残酷なのか、それを皆様と一緒に考えたい。

 

殺戮にいたる病は映像化が難しい物語

 

 いきなりネタバレから入る。叙述トリック。以上。

 

 いや大雑把すぎるが、だいたいこれであってる。勘の良いミステリー小説ファンならこれですべてを察するはずだ。そもそもこの作品は名作と名高く、興味のある人はすでに読んでいるはずだし、また逆に面白いという噂を聞きつけた未読のファンならば、一番最初にするべきは検索エンジンを利用してまでこんな場末の感想ブログなんて読むことではなく本編を読み始めることだし、これでも誰にも迷惑はかけていないと思う。

 

 それからもうひとつ、この物語は映像化することが難しいと言われている。それはおそらく岡村孝子がイエスと言わないからだ。この物語では岡村孝子の楽曲がものすごく重要な意味を持つ。岡村孝子以外では物語の美しさを損なう恐れがある。なんのことだろう?と思われた方は読み進めてほしい。

 

あらすじ

 

 さてネタバレも盛大に済ませたことだし私の「殺戮にいたる病」に対する感想を始めたいと思う。

 

 「殺戮にいたる病」は一言で言ってしまえば、叙述トリックの皮をかぶったカタルシスの開放だ。もう少し分かりやすく言えば、何かを犠牲にして得た快楽は美しい。

 

 まてまて。話をゆっくりと聞いてほしい。

 

 まずはざっとあらすじを説明する。

 

 冒頭で6件の殺人事件を起こした蒲生稔が、その最後の殺人現場で現行犯で逮捕される場面から始まる。

 この物語はその最後の場面に居合わせた3人つまり、殺人鬼・蒲生稔、自分の息子が殺人鬼だと疑う雅子、殺人鬼を追いかける元刑事の樋口の視点と時系列とをそれぞれ行き来しながら語られる。

  作品としていきなりエピローグから語られる手法はよくあるが、ミステリーで最初に犯人を提示されると読者はいったい何を求めて物語を読み解けば良いのか若干戸惑うことがある。たとえば最初に提示された犯人が実は、犯人ではないとか。ところがこの物語は残念ながら殺人鬼はどこまで行っても蒲生稔で間違いない。

 6件の殺人を繰り返す蒲生稔には残念ながらこれといった動機も特にない。いや、ないことはない、それは彼が死体そのものを愛しているからだ。彼は純粋な殺人鬼なんだ。言ってしまえば殺人鬼だから殺人をおこす。そこに取り立てて語るようなバックボーンは何もない。子供時代のトラウマからくる何かなのかもしれないが、そんなことはどうだっていい。猟奇殺人を繰り返す生まれながらのモンスター。

 蒲生雅子が自分の息子に疑いを向けた頃、すでに事態は深刻な状態となっていた。

 元刑事の樋口は妻を癌で失っていた。その妻が入院した時に世話になっていた看護婦が島木敏子。妻をなくして絶望した樋口を見かねて島木敏子が訪ねてくるようになった。その島木敏子は蒲生稔に殺された。

 島木敏子には妹がいた。名前は島木かおる。樋口とかおるは島木敏子の殺害犯を探す道を選ぶ。方法は敏子に似たかおるによるおとり作戦。危険な選択肢。

 ここで読者は嫌な予感がする。冒頭のシーン。あれは何かの伏線だろうか。あの事件の被害者は誰なんだろうかと。

 嫌な予感の理由ははっきりしている。物語の展開上、猟奇殺人を繰り返すモンスター蒲生稔のことを理解出来るはずもなく、息子の行動に執着する蒲生雅子にも共感もできない。結果として樋口と島木かおるのコンビに心情的にもっとも感情移入しやすいのではないだろうか。しかしこのストーリーは明らかに冒頭の殺人事件の方向に突き進んでいる。この物語の結末はいったい。

 

「君はヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」を見たか

 

 ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破をご存知だろうか。社会現象を巻き起こしたあのエヴァンゲリオンが00年代に入り再び映画化された話だ。その2番目。2回目の2番目。

 その「エヴァ・破」の中でアスカの登場したエヴァ3号機が暴走し使徒と化し、エヴァ初号機を操るシンジがアスカの乗るエヴァ3号機との戦闘を拒否したため、司令にしてシンジの父親碇ゲンドウエヴァ初号機の制御をダミーシステムという自動制御の仕組みに切り替える。結果、ダミーシステムに切り替えられたエヴァ初号機はシンジの嗚咽とは無関係にエヴァ3号機に破壊の限りを尽くす。その場面のBGMとして「今日の日はさようなら」という曲がかかる。アニメ映画としては非常に有名なトラウマ級で見た人の心に鉤爪による傷を残すシーン。

 

 エヴァの「今日の日はさようなら」の場面が何度も何度も繰り返されるような小説。それが「殺戮にいたる病」。

 

殺戮にいたる病と岡村孝子

 

 「殺戮にいたる病」を叙述トリックの小説として扱い、その部分についてことさらに評価したり、解説したり、スポットライトを当てたりすることは違うと私は思っている。それではもっとも注目するべき内容はどこか。

 

 この物語での殺人事件は猟奇殺人事件だ。描写もグロテスクと言われている。特に描写が映像として頭に浮かんでしまうような知的な方々にはこの作品は向かないのかもしれない。

 実は私のようなどんくさい人間にとってはこの小説がポップに感じている。

殺人鬼・蒲生稔の殺害方法は絞殺だ。被害者の首を締める。その時のBGMが岡村孝子の「夢をあきらめないで」。

 

 あなたの夢をあきらめないで

 熱く生きる瞳が好きだわ

 

 何度も何度も繰り返される絞殺。そしてその際のBGMには岡村孝子の「夢をあきらめないで」。なんという皮肉。不思議なことにこのシーンが繰り返される度に読み手にとっては脳内麻薬が湧き出てくるような気分になる。岡村孝子の往年の名曲がなぜか究極のエクスタシー・ミュージックに。それはさながらラヴェルボレロのように頭のなかをぐるぐると駆け巡る。

 「あーなたーのゆーめをーあーきらーめなーいでー」

 恐らくは「殺戮にいたる病」を読んだ読者はもう岡村孝子の「夢をあきらめないで」はまともな気持ちでは聴けないのではないだろうか。

 何かを犠牲にして掴んだ快楽は美しい。

 「殺戮にいたる病」はそんなことを昔のヒット曲「夢をあきらめないで」を犠牲にして教えてくれた物語だと私は理解している。

 

 もし仮にどこかで岡村孝子の「夢をあきらめないで」が不意に流れた際には、この小説を読んだあなたの頭の中には何が想像されるのだろうか。

 

 

 

 

 

「あーなたーのゆーめをーあーきらーめなーいでー」

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

最後に

 多くの人が殺戮にいたる病について語る場合、その物語のミステリーとしての構造について焦点をあてることが多い。

 この物語は本当に、そんな一回読んだだけで消費されてしまうような物語なのか。 私はそうは思わない。それでは殺戮にいたる病の魅力とは?

 そのあたりについて私はこの文章にて書いたつもりだ。

岡村孝子の美しくも有名な歌声と歌詞を犠牲にしつつも、この物語がある種のグロテスクさをエンターティメントに押し上げている。

 ミステリー的な味付けはスパイスに過ぎないと私は感じている。

 

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