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Screamadelica/Primal Scream(プライマル・スクリーム)

プライマル・スクリームの最高のアルバムとは何か

 プライマル・スクリームはアルバムごとに方向性の異なるアーティストだ。そんな彼らの最高傑作は何かと問われるならば、意見はもちろん別れることとなろうが、3rdアルバム「スクリーマデリカ」を推挙する人が多いはずだ。この記事は私がそのスクリーマデリカについて考えたことを書いた文章となる。

 

スクリーマデリカとは

 プライマル・スクリームはUK・グラスゴー出身のボビー・ギレスピーを中心とするバンド。多彩な音楽性を持ちカメレオン・バンドとも呼ばれている。アルバムごとにコンセプトや方向性などが異なるのも彼らの特徴だ。90年代の突入と同時に発表された3rdアルバム「スクリーマデリカ」は彼らのキャリアの中で最大級の成功を収めており名盤中の名盤とも評価されている。

 アルバムとしてはマンチェスター・ブーム(マッドチェスター)期に発表され、ロック・ミュージックがダンス・ミュージックを食う90年代音楽の魁(さきがけ)的な存在と位置づけられることが多い。

 実際このアルバムにはテクノ/エレクトロニカ系の協力者が多数たとえばアンドリュー・ウェザオールなどが参加し、アシッド色が強く、その後の時代に大きく影響を与えている。

 

 私はこのアルバムは90年代中頃には風化して賞味期限切れに近い感情を抱いたことがある。

 事実、90年代後半のデジタルでエレクトロニカ/ダンス・ミュージック全盛の時代に「スクリーマデリカ」を聴き直した際には、今(90年代後半)改めて聴くと古さがあって微妙と感じていた。プライマル・スクリームも5thアルバム「バニシング・ポイント」そのリミックス盤「エコー・デック」というとんでもないアルバムをリリースしていた。しかし6thアルバム「エクスターミネーター」や7thアルバム「イービル・ヒート」が発表された00年代以降に聴くと、むしろ洗練されたダンス・ミュージックと感じた。

 時代に左右されない音楽とは言い難いが、それでもこのアルバム「スクリーマデリカ」の音とそのジャケットのサイケデリックでアシッドな雰囲気は90年代を代表するUKロックの金字塔と考える。

 

スクリーマデリカ完全再現ライブ

 プライマル・スクリームは何度も来日し公演をおこなっているが、そのうちもっとも印象的だったのは、サマソニ11の前日深夜に行われたソニックマニアでのものだ。

 2011年にソニック・マニアにてプライマル・スクリームは「スクリーマデリカ」の完全再現ライヴを行った。私はもちろん幕張メッセにて見たがあまりのカッコよさに倒れそうになった。

 セットリストとしてはスクリーマデリカの収録曲「Movin' On Up」から始まり、「Slip Inside This House」、「Don't Fight It, Feel It」、「Damaged」、「I'm Comin' Down」、「Higher Than the Sun」、「Loaded」、「Come Together」で終わりその後に、「Country Girl」、「Jailbird」、「Rocks」と彼らの代表曲のうち3曲がくっついているとにかく最高なライブだった。

 「Inner Flight」と「Shine Like Stars」を演奏していないのに完全なのか?という疑問や、結局最後は彼らの最大ヒット曲「ロックス」なのか?という疑問はさておき、もう一度繰り返すが最高のライブだった。

 特に「Loaded」の演奏中に、私のそばにいた若者が叫ぶとも心から思わず漏れでたともつかない「かっこいいよ~」という死にそうな声は今でも耳に残っている。そしてこの若者の気持ちは非常に理解できるものだった。

 前の文章で90年代中頃には賞味期限切れに近い感情を抱いたと書いたが、そんなものは彼らのライブの前では嘘っぱちでしかない。

 彼らのスクリーマデリカは現役バンドの演奏であり、懐メロミュージックなどではなかった。

 

ロック好位差し

  プライマル・スクリームの音楽については「ロック好位差し」だと私は考えている。悪い意味ではなく、プライマル・スクリームは決して時代の最先端の音楽を作ったりはしない。時代の最先端から少し後ろを走っていて、タイミングが来た時にぴゅっと差し、大衆的な成功を収め、大きな評価を得る。これはポップ・ミュージックにとってもロック・ミュージックにとっても重要な存在だ。

 けれど「スクリーマデリカ」の成功により、先進的なイメージがついてしまった彼らは後々苦労を強いられることになるが、それはまた別の話ではある。

 

  日本の音楽ファンの間ではプライマル・スクリームの「スクリーマデリカ」とフリッパーズ・ギターの3rdアルバム「ヘッド博士の世界塔」との共通点を語られることが多いが、実際にアルバムの発表日としてはほぼ同時期となる。

 もちろんプライマル・スクリームの「スクリーマデリカ」はある種シングル盤を集めた編集盤的な存在でもあるため、偶然似た内容の楽曲が日英で同時多発的に発生したわけではないが、90年代初頭に一度日本の音楽と世界の音楽がシンクロしかけた瞬間があったということはどういった経緯にせよ興味深い。

 

Whatever People Say I Am, That's What I'm Not/Arctic Monkeys(アークティック・モンキーズ)

アークティック・モンキーズの最高傑作

この文章はアークティック・モンキーズの1stアルバムにして最高傑作にして歴史的名盤の呼び声高い「Whatever People Say I Am, That's What I'm Not」のレビューである。いや、そんな高尚なものではなくむしろ感想だ。このアルバムがいかに最高かを私の感覚だけで書く。

 

 イギリス・シェフィールド出身のオルタナティヴ・ギター・ロック・バンド。パブロック。00年代デビュー組としては最大級の最高を収めている彼らアークティック・モンキーズのデビュー・アルバムが「Whatever People Say I Am, That's What I'm Not」となる。ドミノ・レコーズからデビューしあっという間にスターダムを駆け上がった。

 
 
 デビュー当初は「第二のOasis(オアシス)か?」と散々騒がれたが、良い意味で第二のオアシスになることはなく、2013年発売された5thアルバム「A.M.」もNMEで10点と高い点獲得し、飽きやすいと言われる英国プレスにも長く評価されている。ちなみに今回取り上げた1stアルバム「Whatever People Say I Am Thats What I Am Not」も10点を獲得している。
 NMEの評価はさておき、この1stは彼らが10代の時に作ったアルバムで若者らしく性急なビートであふれたロックンロール・ナンバーそして泣けるくらいの名曲がたくさんあり名盤といって間違いない。オアシスのリアム・ギャラガーがパンクを通過したものの歌唱法とするならば、アークティック・モンキーズのアレックス・ターナーのそれはヒップホップ以降のボーカリストと言える。

 もちろん音楽雑誌などプレスやメディア受けだけが良いわけではなく、UKロックファンにもすんなりと受け入れられ、多くのオーディエンスをわかせることとなる。

 1stアルバム発表後ほどなく日本の夏フェス・サマーソニック06で来日すると、本国英国だけでなく日本国内でも大きな人気を獲得する。

 翌年2ndアルバム「Favourite Worst Nightmare」でその人気を不動のものとすると、グラストンベリー・フェスティバルでヘッドライナーを務めると、同年サマーソニック07でも2年連続の来日を果たし、ついにはヘッドライナーとなるなどその人気を確固たるものとした。

 
 2012年のロンドンオリンピック開会式で演奏をした英国のロック・アーティストはPaul McCartney(ポール・マッカトニー)卿だけではない。彼らアークティック・モンキーズも同じ舞台でライブをおこない、この1stアルバムから「I Bet You Look Good On The Dancefloor」を演奏し、観客をわかせた。

 また最近はライヴのセットリストでは封印されがちながら、ファンの大人気曲かつかれらの代表曲とも言うべき「When The Sun Goes Down」もこの1stの収録曲。とにかく名曲ぞろいのすごいアルバムが「Whatever People Say I Am Thats What I Am Not」。

 

 今年(2018年)には新作となる6thアルバム「Tranquility Base Hotel & Casin」を発表し、近々の来日ツアーが待たれるところでもある。
 

 主要メンバーであるアレックス・ターナーがギター・ボーカルをつとめ、その才能・容姿に優れていることもあるが、髪型をリーゼントヘアにするなど古来のロックンロールについても愛着を見せ、その音楽の方向性も常に話題の中心だ。


 ガレージ・バンドにカテゴライズされることも多い彼らだが、英国出身でもあり、パブ・ロックといった言葉の方がアークティック・モンキーズの雰囲気をより正確に伝えている。
 パブ・ロックとガレージ・ロック(ガレージ・バンド)には何らジャンル的な違いなんてないものの、気分の問題でもあり、たたずまいの問題でもある。
 ちなみにジャケットに写っているタバコを吸っている人物はメンバーでもなんでもなくて、メンバーの友人だそうだ。

 

 

名古屋のソウルフードといえば「寿がきやのみそ煮込うどん」

この文章で言いたいこと

 名古屋市民いや愛知県民のソウルフードについて考えた。そしてそれは「矢場とん」の味噌カツでもなく、「コメダ」のシロノワールでもなく、「味仙」の台湾ラーメンでもなく、「寿がきやのみそ煮込うどん(即席麺)」であるという結論にいたった。

 

ソウルフードの定義とは

 ところで気安く「名古屋のソウルフードについて考えた」と冒頭に書いたが、そもそもソウルフードってなんだって話だ。

 とりあえずウィキペディアから引用する。 

ソウルフードとは、

1.アフリカ系アメリカ人の伝統料理の総称。

2.その地域に特有の料理。その地域で親しまれている郷土料理

-Wikipedia ソウルフードの項目より-

 もちろんここで私が意図するソウルフードは項目2のことになる。

 さらにソウルフードで検索を重ねていいくと、厳密には、特に英語圏ではウィキペディアの項目1のみをソウルフードと呼ぶとの記述もいくつかみつかる。

 少し迷ったが、それでも私はソウルフードとは、どこか特定の地域に住む人々の「魂(ソウル)に根付いた食事」と解釈し、この文章を続けたいと思う。 

 この解釈はソウルフードという言葉遣いにおいて必ずしも正当なものではない。つまりこれは私なりに好き勝手に書くぞ、という決意表明でもある。

 

名古屋めしを食うということ

 名古屋めしには定番のお店がいくつかある。

 例えば味噌カツなら「矢場とん」。台湾ラーメンなら「味仙」。手羽先なら「世界の山ちゃん」。味噌煮込みうどんなら「山本屋 本店」もしくは「山本屋 総本家」。ひつまぶしなら「あつた蓬莱軒」。きしめんなら「住よし」(JR名古屋駅のホームにある店)。あんかけスパなら「ヨコイ」。

 

 けれど、これらは決してどれも名古屋人のソウルフードではない。

なぜならそれぞれに理由がある。

 

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 例えば「矢場とん」の味噌カツや「世界の山ちゃん」の手羽先、「ヨコイ」のあんかけスパは名古屋人の共通のメンタリティではない。あれは観光地としての名古屋の姿でしかない。「矢場とん」に行ったことがない、もしくは遠方の知人としかいったことがない、という名古屋在住の方も多いのではないだろうか。普段よく行く店、のたぐいでは決してない。あれらは「観光地としての名古屋」の延長線上として存在する店なんだ。

 

 ひつまぶしも名古屋名物と呼ばれて久しい。確かにひつまぶしは確かにうまいが、うなぎの良い食べ方なのかどうかという意味においても疑問が残るし、そもそもに高い。価格の高さは致命的だ。価格が高いソウルフードなどあって良いはずがない。名古屋人は見栄っ張りとよく言われるが、ソウルフードにまで見栄をはる必要ない。

 

 台湾ラーメンは格別だ。特に「味仙」で食べる台湾ラーメンは。

 ただし辛い。容赦がない。

私は辛いものが比較的平気なつもりだった。けれど、近年の辛いものブームにはついていけていない。コンビニで販売されている激辛インスタント食品にはまったく対抗できないくらいの舌しか持ち合わせていない。

 そんな私が「味仙」で台湾ラーメンを食べるのことには多少の勇気がいる。「味仙」で普通の台湾ラーメン(NOT アメリカン)を食べるにはそれ相応の体調と心の準備が必要だ。その意味において、いつでもどのタイミングでも食べたいソウルフードとは私の感覚としては少し異なる。

 

 

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※味仙の台湾ラーメン画像がなかったので違うお店の台湾ラーメン画像。

名古屋でラーメンといえばスガキヤ

 ソウルフードと呼ぶからにはやはり魂に根付いていなければならない。少なくとも私はそう思う。

 その意味においてもっとも名古屋人の魂に近い「店」はSugakiya(スガキヤ)以外に考えられない。

 

 スガキヤとは、名古屋を中心とする東海地方のショッピングセンターやその他施設内のフードコート、または単独の店舗として数多く存在するラーメンとスイーツが同時に注文できる安価な飲食施設のことだ。

 スガキヤのラーメンは豚骨をベースとした白いスープで、非常に食べやすい。

 年若い子供にも食べやすく、安価であり、ショッピングセンター内に店舗を構えていることが多い。しかもソフトクリームなどの甘味も用意されているため、家族連れでいきやすく、名古屋人が初めて家の外で食べるラーメンといえばスガキヤ、というのは非常にわかりやすい図式である。

 

 

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 三つ子の魂百までと言うけれど、スガキヤという存在は私は気がついた時から脳みそに刷り込まれていた。

 スガキヤのラーメンはかなり伝統的な味で、おそらくほぼほぼ変更が加えられていない。

 ここまでの話を総合するとスガキヤのラーメンこそが、名古屋人のソウルフードということで良い気がしている。

 

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 スガキヤのラーメンは最高だ、という話をすると5割の賛同と3割の無関心と2割の否定を受けるというのが私の印象だ。

 否定する人たちに耳を傾けていくと、スガキヤはラーメンとして正しくない、という意見が多い。彼らはラーメン好きであることが多く、その主張は、スガキヤのラーメンはこしがなく、あれがラーメンとは違う食べ物だ、ということだそうだ。

 実はこの意見については、私はあまり得意とするところではない。なぜなら私はスガキヤ以外のラーメンを外食として食べたことがなく、ラーメンとしての比較ができるほど知識を持ち合わせていないからだ。

 ただし、むしろスガキヤのラーメンがラーメンでないとするならば、むしろ好都合とも考えられる。 

 スガキヤのラーメンはラーメンなどではなく、名古屋人の郷土愛を語るソウルフードなんだという結論にもってこいの印象がある。

味噌煮込うどん

 名古屋のソウルフードスガキヤのラーメンに決定。めでたしめでたし、で大団円と迎えたいところだが、名古屋ソウルフード話で味噌煮込みうどんの話をしない、ということであれば片手落ちだ。

 やはり味噌煮込みうどんについて語りたい。

 

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※名古屋のホームセンターではナチュラルに「味噌煮込みうどん」ののぼりを販売している。

 

 私は過去に味噌煮込みうどんについての文章を書いたことがある。(→link)

 それは村上春樹の小説にはどうして「味噌煮込みうどん」が登場しないのか?という疑問がそもそもの始まりだった。結論は特に見つからず村上春樹の小説の登場人物は昼飯にパスタを茹で、料理し、食べる。それが彼らに与えられたライフスタイルである、という現実だけだった。

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 前にも同じことを書いたがここでも「味噌煮込みうどん」をご存じない方のために再度味「噌煮込みうどん」について書く。

 土鍋の中に赤味噌と長ネギと揚げとうどんを投入し、グツグツ煮込む料理であり、卵を投入するとさらに良い。味も濃いし、見た目も良くないがそんなことは知ったことか。麺はもちろんアルデンテ。半生だ。歯ごたえがあることが正義。店で頼んで煮込んでもらえば柔らかくなるが、そんなものは邪道でしかない。蒸気穴の空いていない土鍋の蓋を取り皿として麺と具をのせて食う。

 

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 名古屋には有名な「味噌煮込みうどん」のお店が二店舗ある。それは両方ともに山本屋と呼ばれている。ただしくは「山本屋 本店」と「山本屋 総本家」だ。私はこの二店については天と地の差があると考えている。個人的には圧倒的に「山本屋 本店」にいくことをオススメしたい。当ブログは「vs.おすすめ」の名前を持ち、おすすめはしない方針で文章を書いてはいるものの、この件についてはその考えを逸脱し、味噌煮込みうどんをお店で食べる際のチョイスについてだけは口だしをしたいと考える。

 

 先に出たスガキヤのラーメンと味噌煮込みうどん、どちらがより名古屋人のソウルフードにふさわしいかについてはかなり深刻な問題ではないかと私は考えている。

 

 けれど、答えとしてはひどく単純だ。

 

名古屋人のソウルフード

 名古屋人のソウルフードは「スガキヤのラーメン」かそれとも「味噌煮込うどん」か問題を解決するハイブリッドかつリーズナブルな方法がある。

 それは、この記事のタイトルにもなっている「寿がきやのみそ煮込うどん」と呼ばれる袋麺の存在だ。

 

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 「スガキヤ」ではなく「寿がきや」と表記されており会社は異なるがれっきとしたグループ会社「寿がきや食品」の商品だ。

 この「みそ煮込うどん」こそが最強かつ最高にして、リーズナブルな名古屋のソウルフードと言って差し支えない。

 食べ方はいたって単純。この袋麺をなべに突っ込みグツグツと煮込む。

 長ネギ、卵、揚げ、かまぼこなどをお好みに応じて突っ込む。なんなら豚肉や鶏肉を入れてもいい。いや、逆に麺と卵だけでも良い。それだけで美味い。小腹が空いたときの非常食に最適。お昼ご飯にも最適。夕飯だと若干物足りないが、いけないこともない。攻守最強の袋麺。それが「寿がきやのみそ煮込うどん」だ。

 おそらくスガキヤのラーメンについて否定的な意見を述べたであろう名古屋市民もこちらの「スガキヤのみそ煮込うどん」が名古屋市民のソウルフードであることについては、否定的な意見を言わないのではないだろうか。

 「安い」「美味い」「馴染み深い」

すべてにおいて条件を満たしているように思う。

 

お土産に最適

 「寿がきやのみそ煮込うどん」は名古屋にあるコンビニでも(本当によいのはスーパーマーケットの特売日の5個パックではあるけれど)買えるのでお土産にも最適。名古屋のお土産といえば「ういろう」とか「なごやん」とか「ゆかりせんべい」とか「納屋橋まんじゅう」とかいろいろあるけれど、それよりは「寿がきやのみそ煮込うどん」が良いのではと、私は考える。

 

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まとめ

名古屋人のソウルフードは「寿がきやのみそ煮込うどん」一択。

以上。

 

壇蜜日記/壇蜜

あらすじ

 本書「壇蜜日記」は女優、タレント、グラビアモデルの肩書を持つ壇蜜が2013年秋から2014年夏までの期間について天気と自らの生活の一部をソリッドな文章で書き記した記録である。

 

壇蜜の時代

 確かに壇蜜の時代というものがあった。

それは広末涼子の時代とも、新垣結衣の時代とも、宇多田ヒカルの時代とも、石原さとみの時代とも意味合いが異なる。

 時代の中央に壇蜜がドカンと現れて壇蜜の時代が出来たわけでは決してない。なぜなら壇蜜には独特の日陰者っぽさが漂うから。

 結婚するべき正妻というよりは、愛人という言葉が似合う存在。いや、愛人と言ってしまうと少し印象が異なる。昭和のお妾さんと言ってしまったほうが、よりイメージにぴったりくる。

 

 壇蜜をもちあげたのは福山雅治だのテリー伊藤だの、ということになる。彼らが壇蜜は素晴らしいと取り上げなければ、壇蜜の時代なんてものは出来なかった。

 壇蜜がどんなにグラビアで着エロまがいのポーズを決めようとも、ヌードグラビアを発表しようとも、下着姿で妖しげな表情を見せようとも、福山雅治やその他芸能人、文化人たちが、壇蜜素敵じゃないか、といえば壇蜜の株は上がり放題に上がった。あれは本当に不思議な現象だった。 

壇蜜の唇

  黒髪、ルージュの利いた唇、そしてよく見るとスタイルが決して良いと言えないが、壇蜜には不思議な吸引力みたいなものが存在した。それはもしかすると中国人を思わせる芸名から由来しているのかもしれない。

 壇蜜は自らの色気の魅せ方に長けていた。多くの有名人を虜にした。結果として壇蜜は人気を獲得することに成功した。

 なぜ壇蜜が人気があるのか、もしくはあったのかと問われるとするならば、壇蜜の人気の理由はその独特の猫のような表情にあるんだとしか私には想像がつかない。

才女としての壇蜜

  壇蜜は才女だ。それはこの「壇蜜日記」を読めばわかる。とてもソリッドで無駄のない文章で自らの私生活を切り取ってみせる。不思議なことにこの断片たちは、あまりにも見事なまでの切り口のために、生活感がまるでなく、むしろ彼女のミステリアスさは増している。

 壇蜜の女優としての演技力が高いか低いかは私には分からないが、この文章の書き方、読み手との距離感のとり方はひどく演技をしていると感じる。演ずる人が書く文章としてはとても上手(うわて)だ。

 実家に帰った話題が何度かでてくる。けれど、そこには実家での安心感はまるでない。決してすべてを見せていない文章。ともすればすべて虚構かもしれない。

 

 文章の長さもちょうどよい。一文しか書かれていない日もある。

 ゴーストライターの存在を疑われない弾幕としては、適切なのかもしれない。

 

なぜ壇蜜日記の感想なのか

  ところで何故唐突に「壇蜜日記」の感想なのか、という話だが、スマホで自分のブログを最近見る機会があった。その際に「長過ぎる」と感じたから、少し短めの文章を差し込みたくなった、ということと、壇蜜日記を最近読んだから、ということにほかならない。特にそれ以上の理由はない。以上。

 

 

「嘘喰い」最終回は打ち切りなのか問題

趣旨説明

このエントリは、当ブログ「vs.おすすめ」へ検索エンジンから多数流入してくる「嘘喰いの最終回は打ち切りエンドだったのでは」という疑問をお持ちの方々のために、私が作者迫稔雄または掲載誌ヤングジャンプに変わって勝手に個人的に妄想で回答をする文章である。

 

ご注意、ネタバレについて

 この文章では、嘘喰いの最終回付近の流れについてある程度書いてあるので、それをネタバレと捉える人がいると考える。

 もし、まだ嘘喰いがどのようなラストとなったのかご存知なく、なおかつ自分で嘘喰いの最終回について読みたいと考えている方は、どうかもっと別の楽しいブログなどを御覧あれ。

結論

 長く色々と書いてもアレなんで早々に結論を書く。

 打ち切りとかそんなワケあるか。

 物語初期に提示されたこのストーリーの最終到達地点である「屋形越え」を斑目貘は完遂し、なおかつそこまでに登場した相手勢力とはキチンとケリをつけているし、最終シリーズの「ハンカチ落とし」についてはコミックスに「Climax(クライマックス)」とまで明記されている。やりたいことはすべて余すところなく書ききった上で最終回を迎えたと考えるのが普通だ。

 もちろん作者の迫稔雄が、この物語の最終回以降のストーリーを改めて構築したくなる可能性はある。また実写化の話もあるという。ので、何らかの理由により再開をしたり、続編を書いたりするということはあると思う。が、いったんは綺麗に物語としてクローズさせた。終了をしている。理由は、書くべきことを全部書いたから、だ。

最終回までの嘘喰い

 書くべきことをすべて書いた、といったものの、 嘘喰いはハンカチ落としの勝敗が決した後、斑目貘が倶楽部「賭郎」の新しいお屋形様になったところで、即、最終回を迎えているわけではない。

 世界的をまたにかけるような「ヴァイスファンド ヴィゾーム」「国民解放戦線 アル・ヒーブル」「知性至上主義団体・メイソープ協会」、「ロシアンマフィア ヴィ・ザゴーネ」、「国際クラッカー組織 ノーフェイス」、「秘密結社 ダロウギアクラブ」、「マランドラジェン・カルテル」と怪しげな組織を多数登場させている。

 けれど、彼らは紹介程度に、蛇足的に登場しただけで、さらっとふれられただけで最終回となっている。

 嘘喰いは打ち切りでは?という話が盛り上がっている原因はここにあって、次に争うべき登場人物が用意されているのに、彼らとの闘いがないのはおかしい、という話なんだろう。

 

南を甲子園に連れて行って

 

 ところで皆さんはタッチの最終回をご存知か。

 タッチは非常に少年漫画としては素晴らしく「南を甲子園に連れて行って」のキャッチフレーズで物語の目的を明確にしている。

 この物語のタイトルが何故タッチなのか?ということに対して作者のあだち充は「バトンタッチ」のタッチだと説明しているそうだ。事実、「南を甲子園に連れて行って」が物語の主旋律と捉えるならば、この目的は双子の弟上杉和也から、双子の兄貴上杉達也にきちんと継承されている。つまりバトンタッチされている。

 タッチという漫画が上杉達也上杉和也からバトンを引き継ぎ、浅倉南を甲子園に連れて行く物語である以上、3年の夏の大会地区予選決勝の最終回、須見工の新田明男を三振に切って取ったところで、語られるべきことはほぼ無くなっている。あとはグランドフィナーレを迎えるだけだ。

 けれど、タッチはここですぐには終わらなかった。上杉達也の前に、甲子園出場することになる怪物だの好打者だのが登場をする。もし、ここであだち充が今風の漫画のように彼らとの対戦を熱心に書いたとしたらタッチは名作と呼ぶにふさわしい漫画ではなくなっていた可能性すらある。

 タッチがすぐに終わらなかった理由は上杉達也の甲子園での奮闘を書きたかったからではない。もう一つ残されていた、ストーリー上のやり残しを解決するためだ。

 「南を甲子園に連れて行って」をこの物語の目的と書いたが、それは漫画の成り行き上提示されている目的であって、真の物語の目的はそれではない。

 そのやり残しとは、タッチの中で「南を甲子園に連れて行って」が名言であるとするならば、それと同じくらい物語にとって重要なセリフ「上杉達也浅倉南を愛しています」を朝倉南に伝えるためだ。

 タッチの最終話では、前回の甲子園入場行進のシーンから、一気に季節が秋へ跳ぶ。上杉達也の部屋の本棚には甲子園優勝の盾がひっそりと置かれていた。甲子園での試合内容は一切書かれなていない。

 タッチの最終話を読んだ読者が、甲子園での上杉達也の投球が書かれていない、という理由で、タッチが打ち切りだったという言い出すだろうか。それはないはずだ。

 

 ところで、タッチはそもそも野球漫画じゃなくて恋愛漫画だ、という言説がよく囁かれている。私はこの話のまとめ方は大嫌いだ。タッチは私の中では純然たる野球漫画だ。特に上杉達也が2年生の時に、甲子園地区予選において勢南高校戦で西村勇相手に投げ合いノーヒットに抑えながら試合に負ける展開などなかなか他の野球漫画でも出来ない見どころある内容だったと考えている。

世界平和と斑目

  何故タッチの話だったのかと言えば、物語として提示されていた目的が達成された後に新たに出てきた登場人物は、新章突入の証なのか?彼らは物語において消化するべきターゲットなのか?いや違うだろと言いたかっただけだ。

 本来はここで「SLAM DUNK(スラム・ダンク)」の話もしたかったけれど、それはやめた。だいたいにおいてスラム・ダンクは赤木キャプテン曰く「全国制覇」が目的であり、主人公の桜木花道の筋としても赤木晴子と交際することが目的だったようにも思えるので少年漫画としては未完成であるいったら言い過ぎか。けれど山王戦で、漫画としてはすべてを出し切って書くべきことが何も無くなってしまったことは事実にも思えるし、続けたとしても、ライバルの顔の造形的にも考えても限界だったようなので、良い終わりどころ、終わり方だったと私は思う。

 

 ここで「嘘喰い」に話を戻す。

嘘喰い」は得体の知れないギャンブラー斑目貘の物語である。その斑目貘には、何人かの協力者がいる。梶隆臣であり、マルコであり、賭郎の立会人である夜行妃古壱である。その専属立会人夜行妃古壱が斑目貘にひとつの質問をしている。それは倶楽部「賭郎」のお屋形様になって何をするのか?という問いだ。斑目貘はこう答えている。

 「世界平和」

 斑目貘は世界平和を目指している。これは物語の中では冗談なのか本気なのか私には判別がつかなかった。屋形越えを終えた後に、世界的な悪の組織が登場したのはこの流れだろう。倶楽部「賭郎」のお屋形様になるということは手段であって、目的ではないという考え方も出来るだろう。

 もし、この「世界平和」を本気と捉えるならば、確かにまだ物語は志半ばと考えることも出来る。ただし一つ問題がある。「世界平和」という言葉は抽象的すぎる概念だ。なのでこの言葉を噛み砕いてわかりやすく伝えるための存在が「ヴァイスファンド ヴィゾーム」である。これと斑目貘はギャンブル勝負をする。といったストーリー仕立てだ。

 けれど、やはり世界平和は冗談なんだ。もしくはまだ冗談とも本気とも判別のついていない場所にある言葉なんだ。だからここで物語は一度フィナーレを迎えます。が、正しい解釈ではないかと考えている。

迫稔雄の新連載「バトゥーキ」

 

 先々週のヤングジャンプより迫稔雄の新連載が始まっている。内容は「嘘喰い」の続編、ではない。

 新連載のタイトルは「バトゥーキ」。主人公の三條一里は物語が始まった現段階では女子中学生だそうだ。

 「バトゥーキ」というこの作品のタイトル名で検索すると、現在では途絶えているブラジルの格闘技の一種の情報が見つかる。この「バトゥーキ」はカポエイラ(もしくはカポエラ)の一種で共通する部分も多いがより攻撃的でアフリカ的な要素が強いとのこと。この「バトゥーキ」と本作の作品名「バトゥーキ」が同じ意味なのかは分からないが雰囲気として何らかのイメージを共有していることは間違いない。

 ちなみにブラジルの格闘技の「バトゥーキ」のつづりと今回の新連載の「バトゥーキ」の表紙にある英字表記は「batuque」で同じだ。

 この文章を書いている時点では、今作「バトゥーキ」は2話まで話が進んでいるが、物語がどんな目的を持ち、どのように展開するかは現在のところ想像がつかない。

 主人公のJCが成長して倶楽部「賭郎」の立会人となる葵新伍キャプテン翼)方式の展開も可能性としてはありえるが、まったくもって今後の展開は不明。

 ところで迫稔雄の新連載とはいっさい関係ないが、バトゥーキの連載が始まった号のヤンジャンの表紙を飾っている宇垣美里アナウンサーの顔が可愛いと思う。

 

 「宇垣美里アナウンサーの顔は可愛いと思う」この文章をもって嘘喰い最終回は打ち切りだったのか問題について締めの言葉にしたいと思う、以上。

 

 

 

 

イーロン・マスクの時代とシヴィライゼーション レボリューション

あらすじ

 このエントリは私が最近面白そうだと感じた書籍のタイトル「イーロン・マスクの世紀」について、なぜそのタイトルが面白そうかと感じたかということをイーロン・マスクという人物には一切ふれずに書かれた文章である。

 

 

イーロン・マスクの世紀

 少し前の文章でイーロン・マスクの世紀という本が気になっていると書いた。(→link)

気になっている理由の一部として書店に行けばイーロン・マスクに関する書籍が少なからず出版されているし、その他色々なメディアにてイーロン・マスクの名前が取りあげられている。彼は時代の寵児であり、21世紀のを読み解く上で重要な存在であることは間違いないようだ。けれど、私がこの「イーロン・マスクの世紀」のタイトルに惹かれる理由はそこにはない。イーロン・マスクの功績にも人望にも可能性にも興味がない。興味があるのはただただ一点、その後に続く「世紀」という言葉についてだ。

 どうやら私は「○○の時代」とか「○○の世紀」とかそういった言葉に大変惹かれる性質のようだ。

メッシの大会、クリスティアーノ・ロナウドの大会

 たとえばサッカーワールドカップが始まる前にサッカーファンたちは毎回言い出す。「今度のワールドカップはメッシの大会になる」「いや、クリスティアーノ・ロナウドの大会」になる。素晴らしい、4年に一回の世界的な大会が一個人の名前によって記憶されるような印象的な大会になるであろうと彼らは言うのだ。

 事実、マラドーナが準々決勝のイングランド相手に「神の手」と「5人抜き」で2得点を叩き出し、決勝で西ドイツを破った1986年メキシコ大会はディエゴ・マラドーナの大会と言って差し支えないだろうし、ジダンマテラッツィに頭突きをして退場となった2006年ドイツ大会は拡大解釈すればジダンの大会と呼んでも良いだろう。そんなワールドカップが過去にはあった。

 けれど残念ながらメッシの大会もクリスティアーノ・ロナウドの大会も現実のものとはならなかった。彼らはサッカーの才能に溢れてはいたが、ワールドカップという大きな、巨大な器では、彼らの名前を冠するほどの活躍はかなわなかった。

イチローの時代、羽生善治の時代、武豊の時代

 時代の寵児となるような活躍をする人物には、あとから考えると○○の時代と呼べるような圧倒的な期間といったものが存在する。

 7年連続で首位打者を取り、メジャーリーグへ移籍してしまったからという理由で、その記録が途絶えてしまったイチローや、年間100勝すると一流ジョッキーと呼ばれる中央競馬会で3年連続200勝という前人未到の記録を打ち立てた武豊や、七大タイトルを同じ年度で全制覇した羽生善治はそのジャンルの枠組みすら飛び越えて、それぞれ大きなムーブメントを作り出した。実際にイチローの時代とか、羽生善治の時代とか、武豊の時代とか呼ばれていたかどうかは別にして、彼らの時代は確実に存在した。そして私のはこの言い回しが好きだ。

 この3人にはある種の共通点がある。それはこの3人は、それぞれの自分たちの活躍しているフィールドを大きく広げている。時代を作る人物にはそういったスケールの大きさが必要だと私は感じている。

マルコポーロの時代、アインシュタインの時代

 今から10年位前にニンテンドーDSをはじめとして、各種TVゲーム機向けにパソコン用ゲーム「シヴィライゼーション」が簡易版として移植された。それが「シヴィライゼーション レボリューション」となる。

 このゲームをざっくり説明すると一つの文明をプレイヤーが選び、テクノロジーを発展させ、軍備を整え、外交を駆使し、金銭を貯め、勝利条件を満たし勝者を目指すシミュレーションゲームだった。

 選ぶ文明により初期のテクノロジーやユニットの特性、政治体制などが異なり、それをもって大陸の覇権を競う内容となっている。

 このゲームをプレイしていると時折、偉人が登場する。それはレオナルド・ダ・ヴインチだったり、マルコ・ポーロだったり、アルベルト・アインシュタインだったりする。彼らを利用することによりテクノロジーを進化させたりすることが出来る。こうして時代を進め、何かを獲得し、最終的にはいずれかの勝利条件を満たすことによりエンディングを迎えると、最後にリプレイを見ることが出来る。それは、どのように大陸の覇権が切り替わり、領土がどのように塗り替わっていったかを見ることが出来るモードだが、この時に偉人を使いボーナスを得ていたりすると「○○の時代」具体的には、「マルコ・ポーロの時代」「アインシュタインの時代」のように表示される。これをぼんやり眺めることが私はシビレルくらい好きだった。シヴィライゼーションというタイトルはここからきているのではないと思うくらいに心痺れる瞬間だ。

 「シヴィライゼーション レボリューション」は選ぶ文明によってプレイスタイルが異なってくること、勝利条件が4つくらいあること、シナリオが複数あること、プレイのたびにマップがランダム生成のこと、などにより、比較的何度でもプレイ出来るゲームだった。結果、私はかなりの回数プレイしている。

 たくさんある文明のうち、初期からガレオン船の持てるスペイン、独特な使用感のあるモンゴル、海を最大限利用できる日本、騎馬の強いアラビアあたりが特に好きで繰り返し、繰り返しいくつも様々なパターンでプレイしていた。

 ただし概ね道筋は決まっている。テクノロジーをぶんぶんと偉人によりスキップさせ戦車を量産、そのまま大陸を何らかの形で制覇。最後のリプレイ画面で「ナイチンゲールの時代」だの「アルキメデスの時代」だのをぼーっと見ることになる。おそらくは私はこの時に「○○の時代」という言葉を強く刷り込まれたんだと思う。 

もう一度イーロン・マスクの世紀

 

 イーロン・マスクについて私は何も知らない。けれど「イーロン・マスクの世紀」という非常にスケール感のあるタイトルに私は惹かれている。

 だってそうじゃないか。時代どころか、世紀だぞ。そんな存在はそうそう、いない。

 「シヴィライゼーション レボリューション」の中ではとにかくテクノロジーを加速度的に発展させることが勝利への近道となっている。

 イーロン・マスクは過去の偉人たちと同様に加速度的に何かを進める存在に違いない、私はそんな風に感じている。

 

 

面白そうだなと思った本2018年7月版

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あらすじ

 このエントリは私が書店をフラフラしている時に表紙を見て単純に面白そうだと感じた本を、冗談50%真面目30%勢い20%で、直感のみでコメントをつけている非常に内容のない文章である。

じみべん

 

 書店を歩いていて私の目に飛び込んできた文字、それが「じみべん」である。

 正しい書籍のタイトルは「つくおきのじみべん」。

 「じみべん」とは何かということなのだが、見た目が茶色っぽく地味になりがちだが、それを飽きさせない工夫を凝らした作り置き弁当。しかも5日分を週末に準備するレシピ集というのが本書の趣旨らしい。

 伝説のロックスターにジミヘンというギタリストがいる。1970年9月に亡くなっているのであと数年で没後50年になる。この著者がジミヘンのことを知っているかどうかは不明だが、「ジミヘン」と「じみべん」を掛けたタイトルなのだろうか。それとも「じみべん」というタイトルが単純にキャッチーに感じたのだろうか。

 「地味な弁当」をコンセプトに著書を作り、売っていこうという著者と出版社の野心には脱帽である。

 ただ、この「つくおき」はシリーズとして累計100万部を突破しているそうなので、左利きのギタリストの名前をもじったりするお遊びが出来る余裕がある人気シリーズということなのだろう。

 

ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。

 

 なかなかに強烈なタイトルである。

ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のことを教えてくれた。」

 あまりにも唐突すぎて呆然とした。

 「17歳の私」にと書いてあるからにはおそらくターゲットが17歳周辺向けの哲学書をわかり易く説明した本、ということになると思う。が、よくわからないのは京都の部分。京都であることは何らかの意味合いがあるんだろうか。興味深い。

 また、わかりやすさを追求していくためには仕方ないとは言え「17歳の私」とはずいぶんド直球の対象者の絞り方で、あまりに説明的で、その直接的な表現方法に度肝を抜かれた。

名将への挑戦状 ~世界のサッカー監督論~

 

 サッカーの監督論である。著者はヘスス・スアレス

 もちろんこの著書を書いているスアレスは、ウルグアイ代表で試合中に相手選手に噛み付くフォワードのルイス・アルベルト・スアレスのことではない。

 著者のヘスス・スアレスはスペインの州リーグでプロ経験のあるサッカー・ジャーナリストであり、コラムニスト。その彼がサッカー界の名監督を切りまくった内容。

 出版そのものが2011年であるため若干古いが、それでもここで取り上げられているのはグアルディオラカペッロデルボスケモウリーニョベンゲルビエルサカマーチョなど13名。

イーロン・マスクの世紀

 

 私はイーロン・マスクについて何も知らない。

 もちろんPayPalの共同設立者であるとか、南アフリカ共和国出身であるとか、テスラモーターズの取締役会長兼CEOであるとか、宇宙関連事業をスペースX社で推進しているとか、ホリエモン堀江貴文)がことあるごとにイーロン・マスクの名前を出すとか、そんな細部は知っている。けれど、そのどれもがバラバラ過ぎて、断片過ぎて、結局私にはひとつのストーリーとして繋がっていない。

 そんな中、書店で見たタイトルが「イーロン・マスクの世紀」である。世紀って。世紀をを代表する人物とはどんだけ偉大な人物なのか?という問いが私の中には残る。

 イーロン・マスクに関する書籍は他にも多数出ているのでいつか読みたいと考えている。

デムーロ&ルメールで毎週焼肉を食べる法

 

 世界がイーロン・マスクの世紀であるならばJRA(日本中央競馬会)はデムーロルメール時代である。彼らが出走するレースで彼らに逆らうのはもはや愚策である。

 そんなデムーロルメールの得意・不得意などを調査/網羅した騎手本である。

 彼らはあまり人気を裏切ることもなく、不人気馬で穴をあけるという、競馬ファンにとっては神のごとき存在ではある。

 けれど、競馬ファンはデムルメという大雑把なくくりでまとめて、ともすれば競馬は外人騎手を買えば儲かるとかなりざっくりとした言い方をする。そんな競馬ファンへのカウンターパンチ。

 それをわかりやすい欲望、というかゲスい言葉、「毎週焼き肉を食べる法」と表現したなかなかの良タイトル。 

 

なす、大量消費

 
 
 ナスとは大量消費されるべき存在なんだろうか?私の頭の中に疑問が浮かぶ。
 やはりこのムック本も「作りおき」をテーマとしているレシピ本だ。レシピ本界では「作りおき」は大注目ワードなんだろうか。
書店のレシピコーナーへ行くと「作りおき」に関する書籍が山のように並ぶ。その中で他の書籍と違ったバリエーションを求めて、この書では「ナスの大量消費」をテーマとしたのだろうか。その理由はわからないけれど、インパクトは絶大である。

 

実録"気づくだけ"ダイエット

 
 すごい。気づくだけでダイエットが出来る。これはあまりにも画期的だ。
 
 何が画期的なのかを説明したい。

 内容としてはアマゾンは検索エンジンとしても有効であると考えたが、そうでもなかったという話だ。

 けれど「ダイエット」というキーワード検索をかけるとそこそこ面白い検索結果となる(→link)。

 それは「きゅうりを食べるだけ」のダイエットであったり、「体質改善」によるダイエットであったり、「1日2分跳ぶだけ」のダイエットであったり、「1日3分スクワットをするだけ」で痩せるダイエットであったり、「糖質制限」ダイエットであったり、「皮膚をねじる」ダイエットであったり、とにかく1日5分とか、1日10分とか、1日30秒とか色々なものが踊っている。

 革命じゃないですか。ダイエットの革命。xxしか食べないとか、1日xx分何をしないといけないとか、xxを制限するとかすべて些細なこと。気がつくだけでダイエット。何もかも超越している。

ブランドのコラボは何をもたらすか

 

 いつのころからかコラボーレーションが熱い。特に強いブランドと強いブランドの強烈なコラボレーションが熱い。

 私が昔よく行っていた回転寿司屋にはカニコラボというメニューがあった。今思えばなにがカニのコラボなのかよく分からないけれど、それはそれとしてコラボレーションはうまくやらないと魔法は生まれない。

 例えば「マジンガーZ VS デビルマン」とか「ドカベン VS 野球狂の詩」であれば作者がおなじためバランス感覚などに手心を加えるのは容易なことだ。けれど、まったく文化の異なるブランド間でのコラボレーションはそういったわけにはいかない。

 そういった意味で午後の紅茶とポッキーのコラボレーションの内情に迫る本書は興味深い。

 

小売再生 リアル店舗はメディアになる

 

 最近読んでいるいくつかの本が何故か最終的にコンビニのことを語っている、といった場合が多い。不思議なことに、小売において消費者の利便性を追求していくと、結果としてコンビニにたどり着くのだろうかというのが、最近の私の疑問だ。

 そんな中で見つけたのが本書になる。

商品開発という点では他のコンビニに大きく遅れを取っているファミリーマートの店内にいるとたまに不思議な放送が流れている。ファミマオリジナルのラジオ放送だ。比較的有名な芸能人などがDJを務め、ファミリーマートと自分の結びつきを語る。本書で語られているメディア化と関係があるか、ないかはわからないが、確かにこういった試みを行っているチェーン店はいくつかある。

 店舗はメディア化する。これは不思議なキーワードではない。

 実際、書店や雑貨店、飲食店に置かれている商品の売れ筋ランキングなどは購買行動に大いに結びついていると考えても良いと思う。

 リアル店舗とメディア化ということは同居が容易に想像される組み合わせと私にも思える。

 

ちょっとドキドキする女の子の仕草を描くイラストポーズ集

 

 私はイラストを描いたり、デザインをしたりしない。なので書店の絵を書く人のためのコーナーに入った時に、この手の種類の本がたくさんあることに驚いた。

 それは別に悪い意味ではなく、いろいろなポーズ、仕草、構成を書くためにもプロもしくはプロになりたい人はたくさんの資料を元に探求しているということにとても感心した、ということだ。

作画のための 戦う和装男子ポーズ集

 

 女性の仕草、ポーズ集だけだとアレなのでバランスをとって男子編。しかも戦う和装男子ポーズ集とかなり突き抜けてマニアックな感じで。

 一般的に女性向けは刀剣乱舞に限らず、例えば新選組関連などもかなり一般的なので創作をやる方には受けたりするのでは、ということ。

 実際にどれくらい売れているのだろうか。

高校野球は親が9割

 

「人は見た目が9割」とか「伝え方が9割」とか定番の9割本もあるが、最近ではとにかくなんでも9割と書かれた本がブーム。(→link)

 そんな中、登場したのが「高校野球は親が9割」。受験とかならまだわかるが高校野球まで親が9割といってしまうとさすがに言い過ぎでは?と感じるタイトル。

BAILA 2018年7月号

  私は自分が普段興味のないジャンルの雑誌の表紙を眺めることが大変好きだ。特に興味深いのが女性向けのファッション誌。この雑誌BAILA(バイラ)はもちろん一度も読んだことはないけれど、雑誌の特集として「着回し」という言葉をどーんと出してくる飾らないスタイルがとても素敵だ。これがティーンから20代前半向けの雑誌であるならば、もっとキラキラした言葉を使って、決して現実的なことを想起させたりしない。その意味において対象年齢が少し高いんだろうなと想像している。

まとめ

 面白そうだなと思った本を集めてみた。ただし、それ本当に読みたいのかよっ、出落ちじゃねえか、みたいなものが含まれてはいるけれど、私的にはやりきった感があるのでこれはこれで有りと感じている。

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