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花冠の志士 小説久坂玄瑞/古川薫

 
 あなたは久坂玄瑞についてどれほどご存知だろうか?
 
 例えば私はそれなりに幕末を舞台とした物語が好きだ。
 少なくとも明治維新以降の日本よりも、鎌倉時代よりも平安時代よりも室町時代の文化史よりも、私の感情としては幕末のペリー来航から戊辰戦争が終わるくらいまでの時期の物語がもっとも心踊る。
 
 幕末について詳しいわけではない。が、私は幕末の物語が好きだ。けれど久坂玄瑞についてはほとんど何も知らない。知っていることと言えば、長州藩吉田松陰松下村塾の門下生。そこでは松下村塾一の俊才または高杉晋作と並び称される才能と評された。遠く土佐より無名だった時代の坂本龍馬武市半平太から預かった書状を届けた相手。蛤御門の変で若くして敗死したその短い生涯。
 高杉晋作吉田松陰やその他長州藩の志士の物語では、必ずと言っていいほど久坂玄瑞の名前が登場する。けれどそれは、松下村塾では抜群の秀才であったとか、長身でイケメンであったとか、高杉晋作と双璧の存在だったとか、どの物語もそこまでの記述しかなく久坂玄瑞が実際にどのような人物で何の実績があったのかは結局のところわからずじまいだった。
 
 2015年のNHK大河ドラマは「花燃ゆ」といったタイトルで吉田松陰の妹・文(ふみ)が主人公として物語が語られる。この文(ふみ)の最初の夫が久坂玄瑞となる。
 おそらく2015年は幕末以降、久坂玄瑞とその生涯がもっとも注目される年となったのではないかと思う。
 けれど久坂玄瑞以外の人物の物語では久坂玄瑞について語られることは決して多くはない。もし久坂玄瑞について知りたければ久坂玄瑞の物語を読むしかない。
 そんな理由により私はこの「花冠の志士 小説久坂玄瑞」という物語に注目した。
 もちろん歴史小説は実際の歴史とは異なる。事実ではない。歴史小説は物語でしかない。例えば司馬遼太郎は歴史家でもなければ、歴史の研究者でもなく、司馬遼太郎の書く物語に真実を語る義務など一ミリもない。そしてこの古川薫の書いたこの物語はご丁寧に「小説」と銘打たれているため、どの程度が創作なのか、事実が含まれているのか、なんてことはさっぱり分からない。
 そんな小説ではあるけれど久坂玄瑞の人となりを知る引っかかりくらいにはなるのではないだろうかと思い、この小説を読み始めた。
 
 実はこの「花冠の志士 小説久坂玄瑞」はひどく面白い。そして興味深い。
 もし、あなたが吉田松陰や幕末の長州藩に興味があるとするならば間違いなく読むべき内容だ。
 小説と銘打たれてはいるものの、久坂玄瑞が妖術を使うこともなければ、高杉晋作が口から火を吐くこともない。そういった意味では現実に寄り添った物語として書かれている。当たり前だ。古川薫は長州藩山口県にまつわる郷土の物語を誠実に書いてきた作家だ。少なくとも今のNHK大河ドラマよりは誠実な物語として話が展開している。
 
 「花冠の志士 小説久坂玄瑞」は面白い。今すぐ読むべきだと私は書いた。その言葉は真実だ。
 ところが実はこの物語の面白さは久坂玄瑞そのものにはない。もちろんその妻・文に面白さがあるわけではない。
 ではこの物語を面白くしている要素はなんなのかと言えばそれは吉田松陰だ。
 
 「花冠の志士 小説久坂玄瑞」を読むことにより吉田松陰を知ることが出来る。
 
 通常、吉田松陰を主人公とした物語では、その圧倒的な存在感ゆえに他の登場人物が霞んでしまう。事実彼は高杉晋作久坂玄瑞などに「君たちは同士だと信じていたが、うまく立ちまわって功業を狙う者だったのか」と手紙を書いている。その後の久坂玄瑞高杉晋作の行動からするととてもそんなことは言えやしないが、吉田松陰からすれば彼らも、現実世界でうまく立ちまわっている風にしか見えないと言うわけだ。積極果敢なイメージがある高杉晋作吉田松陰との比較においては慎重な男ということになってしまう。
 ところがこれは吉田松陰を主人公に据えた物語の欠点でもある。吉田松陰の圧倒的さゆえに彼という人物の思想が、思考がよくわからなくなっていまう。それゆえ突然、老中の間部詮勝を暗殺するなどということが突拍子もないことを言い出すように見えてしまう。吉田松陰には吉田松陰の整合性がある。彼はアスペルガーではない。
 けれどこの「花冠の志士 小説久坂玄瑞」では少し距離を置いて、久坂玄瑞の立場から吉田松陰が書かれている。通常の吉田松陰ほどには暑苦しくもないし、メチャクチャでもない。それは久坂玄瑞という志士が少し分かりやすい思考を持つものとして書かれているからなのかもしれない。
 
 吉田松陰はいわゆる尊王攘夷派ではない。それは佐久間象山に学び、アメリカへの密航を企てようとしたことからも明白で、異人を見たら切ってしまえという後の長州藩の態度とも大きく異る。当時の日本の国力は欧米諸国と比べても大きく差がある。勝海舟などがそうであるように海外に学び、海外のことを知らなければ対抗などしようがない、ということが吉田松陰の根幹にある。
 むしろ、異人を見たら切ってしまえ的な思想で長州藩が染まるのは吉田松陰が亡くなった後、安政の大獄以降の話だ。
 桜田門外の変により大老井伊直弼が亡くなると長州藩はいったん長井雅楽の航海遠略策を藩論として採用し、見せかけの開国派となる。この時、長井雅楽の考えを否定し、真っ向から対立し、結果として長井雅楽を切腹まで追い詰め長州藩の藩論を尊皇攘夷に書き換えたのは久坂玄瑞だった。
 久坂玄瑞は典型的な尊王攘夷派だった。
 それどころか吉田松陰に学んだはずの松下村塾勢は久坂玄瑞だけでなく、高杉晋作も、伊藤博文も、いったんは尊王攘夷派として活動する。
 長井雅楽を切腹させる流れにおいて、長州藩は藩論を尊皇攘夷とする。その際に松下村塾勢のになった役割は大きい。そしてそこには大きく吉田松陰の陰がちらつく。けれど何故かその方向性は吉田松陰の意図するものとは異なっている。
 
 吉田松陰と彼の松下村塾の門下生たちは、実は思想的に一枚岩ではない。
 
 久坂玄瑞はもともと吉田松陰のことをこころよく思っていなかった。それは久坂玄瑞からすると密航を企てようとした吉田松陰がただの西洋かぶれとしか思えなかったからだ。
 久坂玄瑞吉田松陰と出会う前から純粋な攘夷主義者で、その出会いによっても攘夷思想は変わることはなかった。何故彼が攘夷主義であるかはこの物語ではきちんと理由付けされているが、それはあくまでも小説的なもので、事実に近いものなのかどうかは私にはわからない。
 
 久坂玄瑞吉田松陰は最初に手紙でのやりとりをしている。そして彼らが実際に出会うまで一年以上の時間を必要としている。
 久坂玄瑞は若くして才能あふれる男だ。松下村塾の双璧と言われた高杉晋作と比較しても実のところその才能は久坂玄瑞の方が遥かにひいでている。並び称される等と言ってしまえば久坂玄瑞に失礼にあたる。けれど若い。若くして才能を爆発させたものの性なのか、自身の能力を過信している部分がある。
 
 久坂玄瑞吉田松陰の手紙のやり取りは二人の出会いの前におきているので、もちろん物語の冒頭に書かれている。ところがこのくだりは小説的な盛り上がりにおいてはいきなりクライマックスがやってきた感がある。
 久坂玄瑞から吉田松陰に送られた手紙には古来の北条時宗の決断を賛美しその行動力に習ってメリケン(アメリカ)の使節を斬るべき、攘夷を徹底すべきと書かれていた。吉田松陰からの返答ではそれは時代遅れの考え方であり空論でしかない、ということを強い調子で徹底的に久坂玄瑞の意見を否定して述べている。久坂玄瑞もその反論に対して自説を曲げることをしなかった。
 
 この手紙のやりとり吉田松陰の思考が読んで取れる。
 
 吉田松陰が嫌うもの。
・世をはかなむふりをしつつ、実のところ自らの功名心を満足させようとする思考。
・時流が読めていない行為。メリケンの使節を斬るならば嘉永六年にやるべきだった。安政元年では遅すぎる。安政三年の今などお笑い草でしかない。過去の事例を引用し、タイミングい遅れで今に当てはめるなど愚策でしかない。
・自分の立場から意見を言わないこと。将軍なら将軍の立場から、大名なら大名、農民なら農民の立場で考えるべき。それが着実であるということ。自らの身分から離れた意見など意味が無い。
・つまらぬ多言を費やすこと。聖賢の貴ぶところは議論より実行。
 
 吉田松陰は攘夷主義者ではないと書いた。実はそれは嘘だ。
 攘夷のやり方が違うだけだ。
 もともと吉田松陰は外国と戦えという論者であった。けれど佐久間象山の元で海外の様子を学び、条約が締結されたことを知ると、とにかく外国へ渡り、その国情を知ることを望んだ。それは孫子の兵法のごとく敵を知る必要があるという意味に過ぎない、いつか攘夷をやるために海外に学ぶ必要があるとおそらく吉田松陰は考えていた。
 吉田松陰は時流を読み、情報を多く手に入れようとし、その思考は硬直したものではなく柔軟なものだった。密航以降は獄にあり、決して自由に外にでることはできなかったけれど、それでも自分の弟子たちを使い多くの情報を入手しようとした。
 インプットから導き出されるアウトプットが少しばかり過激だったことと、時流を読むスピードが早すぎたため、周りとの軋轢を生んだのかもしれない。
 
 話を久坂玄瑞に戻す。
 
 久坂玄瑞高杉晋作松下村塾に誘ったのは中谷正亮という人物。
 中谷正亮は松下村塾の最年長(吉田松陰の2歳上)の塾生でもある。
 久坂玄瑞は才能があり身長も高く、男前だったそうだ。もてないはずがない。吉田松陰の妹・文(ふみ)も久坂玄瑞に興味をもった女性のうちの一人だ。吉田松陰も妹・文の亭主として久坂玄瑞がふさわしいと考えたようだ。
 ある時、吉田松陰の意をくんだ中谷正亮が久坂玄瑞に話を持ちかける。久坂玄瑞は困惑する。久坂玄瑞は何故か良い返事をしない。中谷正亮は「文さんを嫁にもらえ」と怒鳴る。けれどやはり久坂玄瑞は返答を渋る。中谷正亮の追求についに久坂玄瑞は本音をもらす。
 「文さんは不別嬪でしょう。嫁にするなら、美しい人をと、これは前から考えちょったことであります」
 幕末の志士、アメリカからの使節を今すぐ斬れと息巻いていた久坂玄瑞は美人を嫁にほしいと考えていた。しかし残念ながら吉田松陰の妹・文はそうではなかった。話の流れとして久坂玄瑞はしぶしぶ文を妻とすることになる。
 この小説において久坂玄瑞は妻に対しては誠実な態度を取っていない。もちろん直接的な態度が悪かったわけではないが、この物語からはそう受け止めることが出来る。久坂玄瑞は文のいる萩を離れることが多くなったが、手紙を書くことも少なく、むしろ兄である吉田松陰にのみ手紙を書けば事足りると思っていた節もあるようだ。
 長州藩は下関戦争という一つの藩がイギリス・フランス・オランダ・アメリカを相手に戦うという正気と思えないことをおこなっている。そのきっかけとなる人物が実は久坂玄瑞だ。彼は及び腰になっている司令官に対し強行な態度を主張した。その直後彼は京都に行くことになるが、その際、近く下関にいながら文に合うことはなかった。
 
 久坂玄瑞を画像検索すると鉢巻姿の肖像画にたどり着く。とても有名な肖像画だ。実はこの画像は久坂玄瑞をモデルに書かれたものではない。ではモデルは誰なのか。それは彼の長男である秀次郎だ。ところが秀次郎の母親は文ではない。秀次郎の母親は井筒タツという女性で、生まれたのは久坂玄瑞蛤御門の変で討ち死にした二ヶ月後に京都で生まれている。秀次郎が久坂玄瑞の忘れ形見として萩藩に認知願いが出されたのは明治に入ってからのことだった。証明するものは何もなかったが、その容貌があまりにも久坂玄瑞にそっくりだったので、秀次郎は久坂玄瑞の遺児と認められた。
 
 久坂玄瑞はどうも吉田松陰の存命中から妻である文を避けていた節がある。いや決して夫婦仲が悪かったわけではない。けれど、一番ではなかった。そんな風に見受けられる。
 幕末の志士として俊才。けれど結果生き急ぐことしかできなかった。
 
 ぼんやりと、久坂玄瑞がどんな人物なのか分かっていただけただろうか。
 いや、分かるわけがない。この私なりのひどいまとめ文章だけではどんなに頑張ってもロクな人物ではない。そして何もなしとげていない。若き才能とおごり、攘夷主義者。美人の嫁を持ちたいと願っていた若者。しかし彼の短い生涯は決して薄っぺらいものではない。
 それは本来はこんな短いスペースでは語るべきことではない。そして松下村塾一の秀才や高杉晋作と双璧などの一言で彼は語られるべき存在でもない。
 
 
 
 
 
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