vs. おすすめ

おすすめブログのカウンターとして始めたはずが、気がつけば薄っぺらなブログ

旅のラゴス/筒井康隆

あらすじ

 1980年代、筒井康隆は全盛期だった。その80年代中盤の著作の中でも異質でありつつも、筒井康隆的である本作「旅のラゴス」を今日は取り上げる。

 本書はラゴスを主人公としたファンタジー的かつSF的な一生をかけた旅の物語となり、その舞台はかつて栄えていた物質の文明をすでに失ってしまった世界の出来事である。

 

 

筒井作品における「旅のラゴス」の位置づけについて

 1980年代の筒井康隆は異常だった。

 村上春樹ノーベル文学賞を与えるならその前に筒井康隆ノーベル文学賞を与えろ、が私の常日頃の主張ではあるけれど、1980年代の筒井康隆について考えるとその主張はあながち間違ったものではないと私は確信している。

 事実、筒井康隆は1981年「虚人たち」、1984年「虚航船団」、1987年「夢の木坂分岐点」、1988年「驚愕の曠野」、1989年「残像に口紅を」、1990年「文学部唯野教授」、1990年「ロートレック荘事件」と怪作を次々と上梓していった。

 それは前衛的でもあり、アイディアと冒険心に富み、筒井康隆的な暴力性を失わず破壊的であり、圧倒的な推進力と狂気をはらみ、かつ文学的でもありSF的でもあった。

 けれど、この1984年から1986年かけて書かれた「旅のラゴス」はこれらの作品とは若干毛色が異なる様相を呈している。

  圧倒的なまでに狂気に支配されているかのような「虚航船団」と、圧倒的なまでに物語の破壊と再構築をおこなっている「驚愕の曠野」、という2つの作品が、SFの皮をかぶった文学であることに対して、そのあいだの期間に書かれた「旅のラゴス」は緩やかな衰退の時代を書いた終末世界のSF小説と受け取れる。

 言い方は悪いが、「旅のラゴス」は、その前後の2作品で前衛的な文学に挑戦していた筒井康隆が、箸休め的にSFの世界に戻ってきた作品とも言える。

 ただしこの「旅のラゴス」はのちの大傑作「驚愕の曠野」に間違いなく繋がっている。

 

 私は以前、筒井康隆作品「ロートレック荘事件」の感想を書いた。(→link)その中で、「旅のラゴス」について前衛的な作品だ、と書いている。すまない、あれは間違いだ。「旅のラゴス」は決して実験的な野心作な部類の作品ではない。

 どちらかと言えば、おだやかな、それでも芯はしっかりとしているSF的な小説である。

異質な「おれ」

 「旅のラゴス」での主人公の一人称は「おれ」だ。筒井康隆の小説の中では比較的よく登場する一人称ということになる。

 一般的な筒井作品の中の「おれ」が男前で女にもて、ドタバタと自分の思い通りの発言をし、もがき苦しみながら、その才覚を発揮し、時に成功し、時に失敗し、時に嫉妬し、時に嫉妬され、時に笑いを誘うそんな人格を与えられていることが多い。

 その意味では読み始めた時になんだか「おれ」という表現に安堵の気持ちが湧く。けれど、残念ながらこの「おれ」はいつもの筒井作品の「おれ」とは異なり、どちらかと言えば、シニカルで、常識的で、醒めていて、クールで、他者の持ちえない知識を武器に戦い、今風に言えば「なろう小説」やライトノベルの主人公のような趣きがある。

北から南へ

 物語はラゴスの北から南への旅で始まる。

 スカシウマだのミドリウシだの独特の名前を持つ家畜たちが登場する。

 この名前から読者は少し異世界の雰囲気を物語から掴み取ることができる。筒井康隆には珍しいファンタジー的な設定だ。

 けれど、すぐにトリップだの転移だのファンタジー小説というよりはSF小説と言ったほうがふさわしい言い回しに出くわす。

 旅のラゴスは何度もいろいろな理由で引き止められつつも、南への旅を続ける。彼には南へ行かないといけない理由があるからだ。

筒井康隆の代表作「時をかける少女

 80年代の筒井康隆から一般的な筒井康隆のイメージ、つまり前衛的なものや、野心的なもの、暴力的なものを丁寧に削ぎ落としていくちょうど「旅のラゴス」が残る。

 実は私は筒井康隆作品はどこか投げやりな部分がある、と常々感じていた。言ってしまえば物語が後半になるにつれダレる。プロの作家に向かって言うことではないが、どこかしらそんな印象を毎回持ってしまう。冒頭の部分を書くと次の著作が、もう浮かんでしまい、この物語を打ち切りたくて仕方なくなっているんじゃないか。そんな想像を掻き立てることが少なくない。

 けれど、「旅のラゴス」はていねいだ。物語が進んでいくにつれ、物語が立体的になっている。どんどん次を読みすすめたくなる。

 

 筒井康隆の作品に「時をかける少女」というひどく有名な作品がある。不思議なことに「時をかける少女」は筒井作品の中ではかなり異質な部類に入る。

 彼が書いたたくさんの小説、短編、ショートショート、エッセイどれとも「時をかける少女」はあまり似ていない。おそらく筒井康隆の作品を読めば読むほど読者はそう思うのではないのだろうか。

 ジュブナイル小説として書かれた短編という経緯もあるだろうが、「時をかける少女」は私はひどく、ていねいな物語と認識している。

 

 筒井康隆作品は時としてその大雑把さが、魅力につながっている。が「旅のラゴス」と「時をかける少女」このに作品は、筒井康隆の何か余計な贅肉をていねいに削ぎ落とした結果の作品、という意味合いで私の中では共通している。

 

南から北へ

 ラゴスの旅は南へたどり着いたことで終わりを迎えたりしない。

 南にたどり着いたところで、この世界の全容が明らかになる。明らかにはなるが、だからといって物語が大きく展開したりしない。時間は今までと同じようにゆったりと流れる。

 筒井康隆は、この物語をていねいに書き続ける。

 そしてラゴスの旅は、今度は南から北への物語と変わる。

 北へ戻るたびの途中、物語の冒頭で出会った人々とラゴスは再会する。北への旅はある種の再会の旅でもある。

 ラゴスはまだまだ北へ向かわねばならない。

 

ドネルはいったい誰なのか?

 この物語の最後にドネル、という主人公のラゴスと年齢が近いであろう人物が登場する。ドネルについてラゴスはこんなことを思う。

 「彼の顔にはどことなく見憶えがあった。はるかな昔、南の国のどこかで逢っているのかもしれなかった」

 もちろんこの物語の中でドネルの名前が登場するのははじめてのことだ。

 読者は思う、はて?誰のことなんだろうか。この謎は解き明かされることなく物語は終わる。確かにこれは重要なことではない。でも何かもどかしい。実はこの人物はもう一度読み返すと推測ができる。

 そうやって「旅のラゴス」はもう一度読み返される。

Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...