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LP1/FKAツイッグス

LP1/FKA twigs  → link
 

 昔、村山実二世、と呼ばれた投手がいた。

 

 もちろん村山実二世とは、村山実の実子つまり血統的な二世のことを指すわけではない。

 

 村山実二世の前にまずは村山実本人について。

  ザトペック投法という名前の投げ方がある。

 かつての阪神タイガースの大エース村山実の全身を使った投球フォームがダイナミックなものであったため、人間機関車の異名を持つ男チェコスロバキアの陸上選手エミール・ザトペック選手の名を拝借してこれをザトペック投法と呼んでいた。

 村山実は天覧試合にて、かの長嶋茂雄サヨナラホームランを浴びている。そんな時代の選手だ。

 ザトペック投法は例えば村田兆治のまさかり投法や野茂英雄トルネード投法渡辺俊介のサブマリン投法などのように特定の投げ方をあらわすものではない。村山実が投げればそれがすなわちザトペック投法なのだ。ザトペック投法と呼ばれる投法で投げていたプロ野球の投手は後にも先にも村山実ただ一人しかいない。

 このザトペック投法により村山実阪神タイガースのエースとして君臨し大卒の投手(プロ入りが遅く実働年数が短いという意味)ながら、222勝という圧倒的な勝利を重ねた。

 これが村山実だ。

  

 その昔、板東英二がこんなことを言っていた。

 ○○二世なんて呼び名をもらって大成したプロ野球選手なんていない。

 そもそも大成するような投手は○○二世なんて称号はもらわない。

 いや、実はたった一人だけ○○二世と呼ばれて大成した投手がいる。それは板東英二(つまり自分自身のこと)だけだ。彼は入団時に村山実二世の称号を得た。村山のダイナミックな投げ方と、板東英二のそれとには共通点があるのだろう、ゆえに入団時に大きな期待を受け村山二世と呼ばれたのだと。

 テレビタレントの板東英二ではなく、元プロ野球選手としての板東英二についてご存じない方のために少し説明をする。

 板東英二はかつて中日ドラゴンズに投手として在籍した。高木守道権藤博と同時期にプレイした選手ということになる。彼は村山実の222勝には遠く及ばないものの11年間のプロ生活で77勝をあげ、プロ野球選手としては大活躍した部類となる。

 板東英二は高校時代から有名な投手だった。

 高校野球では延長18回(2000年以降は延長15回)まで行くと引き分け再試合となる。このルールは実は板東英二がきっかけでできたものだと言われている。板東英二は地方の四国大会にて2日で延長16回と延長25回を一人で投げ抜き、それを目の当たりにした大会役員が高校生には負担が大きすぎるということで、延長18回引き分け再試合というルールが出来た。この引き分け再試合を最初に実現した投手も板東英二だ。彼は甲子園という大舞台で魚津高校村椿との投げ合い、0対0と一歩も譲らず、ここで史上初の引き分け再試合を実現している。板東英二はその引き分け再試合に勝ち、甲子園の決勝で負けはしたものの甲子園準優勝投手の栄誉を勝ち取る。

 村山実二世という称号はうなずけるくらいの高校野球時代の実績である。周囲からの評価も非常に高かったことを思わせるエピソードだ。

 けれど、この話にはオチがある。

 実は板東英二の入団年度は村山実と同じ年だ。村山実は大学卒、板東英二は高校から直接入団という状況なので必ずしも同一条件ではない、それでも同年入団の選手、しかもプロ実績のない投手の二世、という評価はいったいどうなんだろう。

 一方、村山実自身は新人ながら実力が認められ活躍がすでに約束されていた、ということなので○○二世とは呼ばれなかったということか。

 しかし本当に村山実が○○二世と呼ばれていなかったかどうかはわからない。村山実る以外の大投手についても同様だ。最初、○○二世と呼ばれていたのかもしれないけれど、その活躍ぶりから、今となっては誰も覚えていないだけかもしれない。

  ○○二世という呼称は呼ばれた当事者が結果を残せば、そんな呼び名で呼ばれていたことすら忘れ去られる。

 ○○二世と呼ばれたプロ野球選手が大成しないわけではない。大成したプロ野球選手のことをかつて○○二世と呼んだことを忘れてしまうだけだ。

 

 

 ここでやっとFKAツイッグスの話題となる。 

 長かった。

 

 「新世代のビョーク」。

 

 それが今のFKA twigs(FKAツイッグス)の紹介文についてまわる枕詞。メディアはこの言葉を何の迷いもなくあっさり使う。

 

 「新世代のビョーク」という呼び方はFKAツイッグスに幸福をもたらすものなんだろうか。

 

 実はこの言葉「新世代のビョーク」は何も言い表していない。確かにFKAツイッグスのどこまでもアーティスティックなアーティスト写真、佇まい、インタビューなどから伝わってくるもの、ライブでの立ち振舞い(私は動画でしか見たことがない)、神秘的な歌声、などを総合すると、その独特の雰囲気はビョークに相通ずる部分がある。

 けれど本質的な部分での共通点は、多種の先進的な音楽性を取り入れたサウンドプロダクト、独特のエキゾチックな雰囲気を持つエレクトロ・ポップの歌姫ということでしかない。

  ざっくりとは似ているけれど、ざっくりとしか似ていない。

 

 実のところ音楽性においてビョークとFKAツイッグスを比較することはまったくもって意味をなしていない。

 FKAツイッグスの音楽が何であるのか私はよくわかっていない。彼女のデビュー・アルバム「LP1」をアホのように10回ほど通しで聴き、youtueで主要な楽曲、例えば「Two Weeks」であるとか「Pendulum」であるとか「Water Me」であるとかを「Video Girl」とかを見ても私には難しすぎてよくわからない。

 いや、一つだけ思ったことがある。それは彼女が鼻ピアスをして縛られて、踊っているビデオクリップからは、その昔見た漫画「ベルセルク」の「蝕」が想起された、ということのみである。

 果てしなく異風な感触。

 アートのように私の頭のなかにベヘリットがぐるぐると回り続ける。(ベヘリットが何かわからない人は画像検索でもすればいい。)

 音楽性についてといいながら私はビデオクリップから伝わってくるものしか感想として述べていない。それは本当に音楽について語っている態度なんだろうか。

 

 FKAツイッグスのアルバム「LP1」の音楽的な要素を語る際には彼女の若き共同作業者Arca(アルカ)について語ることで代用されている場合が多い。アルカというのはあの不遜な男Kanye Westカニエ・ウエスト)が才能を認めアルバム「イーザス」の中で一部楽曲をプロデュースさせたほどの異才。

 異才とも鬼才とも評されるこのアルカは今年発表されたビョークの新譜「ヴァルニキュラ」でもやはり共同作業者として名前を連ねている。

 もちろん一部楽曲が同じ共同作業者によって制作されている、ということは音楽において重要な事だ。けれど、かつてMuse(ミューズ)のデビュー作がRadioheadレディオヘッド)のアルバム制作に関わったジョン・レッキーによるプロデュースだったことを受けてミューズとレディオヘッドの類似性が取り上げられたことがあったが、あれは正確な指摘だったのだろうか。

 

 ビョークはすでに評価の固まったアーティストだ。

 彼女は90年代の初頭にデビューしているので、すでに20年以上のキャリアがあることになる。ところが不思議なことに、評価が固まったアーティストとは言ったもののビョークがどんなアーティストなのか、は伝えにくい。

 先鋭的なサウンドを常に取り入れたアイスランドの歌姫。ロックであり、エレクトロであり、ダンス・ミュージックであり、オルタナティヴであり、ポップである。その行動はアーティスティックで、獣性があり、エキセントリック。

 前作「バイオフィリア」という音数の少ないアルバムにいたっては宇宙を感じたリスナーも多かったのではないだろうか。

 おそらくこの文章からビョークをご存じない方がビョークがどんなアーティストなのかを理解していただくことは難しいように思う。それはもっともな話でビョークにはビョークにとって変わるような代替の存在などいないからだ。

 もちろん、私の文章が下手で、必要な情報を何も伝えていない、ということでもある。けれど、例えばウィキペディアや、他の音楽評論家のビョーク評を読んでも私は今ひとつピンとこない。このどれもが、私の知っている、いや世間で流通しているビョークのイメージをうまく掴みきっていないことが多いように感じている。

 逆に言えばこのつかみ所のなさこそがビョークらしさと言ってしまうことも出来ると思う。

 書けば書くほどに意味がわからない。深みにはまっていく。

 ビョークにはどこかしら獣性があると先ほど書いたがそれは、例えるならネコ科の何か。もちろん猫そのものではない。そんな生易しい生き物ではなく、もっとずっと凶暴な「何か」を内面に飼っているアーティストに思える。

 実は私には想像がついている。ビョークが内面に飼っている獰猛な生き物の名前を。

 おそらく、それはビョークという名前の生き物。 

 人類が未踏の世界のどこかの秘境の真ん中にビョークがたくさん、うじゃうじゃと群れをなして、ジャングルの中で時に音楽を作り、時に独自の歌を歌い、時にねこじゃらしに戯れる猫のようにツタによりそいながら暮らしているに違いない。

 ビョークビョークという言葉でしかその存在感を言い表わせない。

 

 

 話をFKAツイッグスに戻そう。

 

 FKAツイッグスを「新世代のビョーク」と呼ぶのは大変楽で良い。

 確かにFKAツイッグスから伝わってくる総合的な部分、例えば、神秘的な雰囲気、先鋭的な音を取り入れている様、歌姫としての魅力、無駄にアーティスティックな存在感、といった曖昧でわからなさに多くを委ねているところではビョークと共通点がある。

 「新世代のビョーク

 この言葉を軸に組み立てていけば、何がビョークと共通していて、何がビョークと共通していないのかを比較していくだけで文章が次々に進んでいく。

 たとえばFKAツイッグスはイギリス出身のジャマイカ人とスペイン人のハーフであり、今はロンドンを拠点に活動しているとか、元ダンサーでデビュー前はジェシー・Jなどのバックダンサーを務めていたとか、独特の経歴を挙げればいくらでも出てくる。

 たしかにFKAツイッグスが歌姫でありつつもダンサーであるということは、彼女のPVをネット上の動画などで見れば、そうなんだろうな、という納得出来る。

 私が個人的に感じた決定的に違う部分があるとするならば、それは現在のFKAツイッグスにはポップ・アイコンを引き受けようとする強い意志を感じるということ。ビョークが獣性を持つ掴み所のない天然の生き物だとするならば、FKAツイッグスは、おそらくは若いということが関係していると思うけれど、アーティストとしての偶像性を引き受けようという強い意志の介在を感じている。

 また私はFKAツイッグスを音楽以外のところで語ろうとしている。

 けれど、これが現在のFKAツイッグスについての実情ではないか、とも思っている。

 FKAツイッグスのアルバム「LP1」を聴くと、確かに神秘的な何かが始まる予感を感じ取ることが出来る。けれど、これが未だかつて私たちが聴いたこともない何かのはじまり、なのかまではわからない。

 そのよくわからない感情を総称して「新世代のビョーク」と呼んでいるとするのならば、それは間違ってはいないのかもしれない。けれど、それならば「新世代のビョーク」とは音楽とはいっさい関係のないものということになってしまう。

 それどころかビョークとは雰囲気アーティストということになってしまう。

 もちろん聴き手を誤解させて、リスナーをどこかに誘うのもアーティストの役目のひとつだ。けれど、ビョークやFKAツイッグスに求められているのはその部分なんだろうか。

 

 FKAツイッグスのFKAとはFormelly known asの略でありつまり「かつて」ツイッグスと呼ばれていたという意味となる。

 元々、彼女つまり、FKAツイッグスことターリア・バーネットはTwigs(ツイッグス)と名乗って活動をしていたが、すでにデビュー済みのツイッグスという姉妹デュオがいたため改名する必要性が出てきた。この時にツイッグスの名前に未練があったのか「かつてその名前で知られていた」を意味するFKAをつけた。

 FKAツイッグスが改名をした時点では、彼女はまだメジャーな存在ではなかった。この時にすっぱりとツイッグスの名前をあっさりと捨てて新たなるアーティスト名をつけてもよかったはずだ。けれど彼女はそうせず、頑なにツイッグス之名前を守った。

 このエピソードから私は彼女の意志の強さを感じている。私こそがツイッグス。いや、それはとんでもない私の見当違いで、単に次の名前を考えるのが面倒くさかっただけかもしれない。けれど、FKAツイッグスというアーティストから伝わってくる「何か」に意味をもたせるのならば、そういった解釈のほうが美しいのではないだろうか。

 

 「新世代のビョーク」と呼びたい人は何か自分の中のイメージをFKAツイッグスに押し付けようとしている。

 けれど、それは私も同様だ。

 もしかしたらFKAツイッグスに対する評価は過大評価なのかもしれない。

 おそらくはその答えは次のアルバム、もしくはそれ以降の活動によってはっきりしてくると思う。 

 

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