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イーロン・マスクの時代とシヴィライゼーション レボリューション

あらすじ

 このエントリは私が最近面白そうだと感じた書籍のタイトル「イーロン・マスクの世紀」について、なぜそのタイトルが面白そうかと感じたかということをイーロン・マスクという人物には一切ふれずに書かれた文章である。

 

 

イーロン・マスクの世紀

 少し前の文章でイーロン・マスクの世紀という本が気になっていると書いた。(→link)

気になっている理由の一部として書店に行けばイーロン・マスクに関する書籍が少なからず出版されているし、その他色々なメディアにてイーロン・マスクの名前が取りあげられている。彼は時代の寵児であり、21世紀のを読み解く上で重要な存在であることは間違いないようだ。けれど、私がこの「イーロン・マスクの世紀」のタイトルに惹かれる理由はそこにはない。イーロン・マスクの功績にも人望にも可能性にも興味がない。興味があるのはただただ一点、その後に続く「世紀」という言葉についてだ。

 どうやら私は「○○の時代」とか「○○の世紀」とかそういった言葉に大変惹かれる性質のようだ。

メッシの大会、クリスティアーノ・ロナウドの大会

 たとえばサッカーワールドカップが始まる前にサッカーファンたちは毎回言い出す。「今度のワールドカップはメッシの大会になる」「いや、クリスティアーノ・ロナウドの大会」になる。素晴らしい、4年に一回の世界的な大会が一個人の名前によって記憶されるような印象的な大会になるであろうと彼らは言うのだ。

 事実、マラドーナが準々決勝のイングランド相手に「神の手」と「5人抜き」で2得点を叩き出し、決勝で西ドイツを破った1986年メキシコ大会はディエゴ・マラドーナの大会と言って差し支えないだろうし、ジダンマテラッツィに頭突きをして退場となった2006年ドイツ大会は拡大解釈すればジダンの大会と呼んでも良いだろう。そんなワールドカップが過去にはあった。

 けれど残念ながらメッシの大会もクリスティアーノ・ロナウドの大会も現実のものとはならなかった。彼らはサッカーの才能に溢れてはいたが、ワールドカップという大きな、巨大な器では、彼らの名前を冠するほどの活躍はかなわなかった。

イチローの時代、羽生善治の時代、武豊の時代

 時代の寵児となるような活躍をする人物には、あとから考えると○○の時代と呼べるような圧倒的な期間といったものが存在する。

 7年連続で首位打者を取り、メジャーリーグへ移籍してしまったからという理由で、その記録が途絶えてしまったイチローや、年間100勝すると一流ジョッキーと呼ばれる中央競馬会で3年連続200勝という前人未到の記録を打ち立てた武豊や、七大タイトルを同じ年度で全制覇した羽生善治はそのジャンルの枠組みすら飛び越えて、それぞれ大きなムーブメントを作り出した。実際にイチローの時代とか、羽生善治の時代とか、武豊の時代とか呼ばれていたかどうかは別にして、彼らの時代は確実に存在した。そして私のはこの言い回しが好きだ。

 この3人にはある種の共通点がある。それはこの3人は、それぞれの自分たちの活躍しているフィールドを大きく広げている。時代を作る人物にはそういったスケールの大きさが必要だと私は感じている。

マルコポーロの時代、アインシュタインの時代

 今から10年位前にニンテンドーDSをはじめとして、各種TVゲーム機向けにパソコン用ゲーム「シヴィライゼーション」が簡易版として移植された。それが「シヴィライゼーション レボリューション」となる。

 このゲームをざっくり説明すると一つの文明をプレイヤーが選び、テクノロジーを発展させ、軍備を整え、外交を駆使し、金銭を貯め、勝利条件を満たし勝者を目指すシミュレーションゲームだった。

 選ぶ文明により初期のテクノロジーやユニットの特性、政治体制などが異なり、それをもって大陸の覇権を競う内容となっている。

 このゲームをプレイしていると時折、偉人が登場する。それはレオナルド・ダ・ヴインチだったり、マルコ・ポーロだったり、アルベルト・アインシュタインだったりする。彼らを利用することによりテクノロジーを進化させたりすることが出来る。こうして時代を進め、何かを獲得し、最終的にはいずれかの勝利条件を満たすことによりエンディングを迎えると、最後にリプレイを見ることが出来る。それは、どのように大陸の覇権が切り替わり、領土がどのように塗り替わっていったかを見ることが出来るモードだが、この時に偉人を使いボーナスを得ていたりすると「○○の時代」具体的には、「マルコ・ポーロの時代」「アインシュタインの時代」のように表示される。これをぼんやり眺めることが私はシビレルくらい好きだった。シヴィライゼーションというタイトルはここからきているのではないと思うくらいに心痺れる瞬間だ。

 「シヴィライゼーション レボリューション」は選ぶ文明によってプレイスタイルが異なってくること、勝利条件が4つくらいあること、シナリオが複数あること、プレイのたびにマップがランダム生成のこと、などにより、比較的何度でもプレイ出来るゲームだった。結果、私はかなりの回数プレイしている。

 たくさんある文明のうち、初期からガレオン船の持てるスペイン、独特な使用感のあるモンゴル、海を最大限利用できる日本、騎馬の強いアラビアあたりが特に好きで繰り返し、繰り返しいくつも様々なパターンでプレイしていた。

 ただし概ね道筋は決まっている。テクノロジーをぶんぶんと偉人によりスキップさせ戦車を量産、そのまま大陸を何らかの形で制覇。最後のリプレイ画面で「ナイチンゲールの時代」だの「アルキメデスの時代」だのをぼーっと見ることになる。おそらくは私はこの時に「○○の時代」という言葉を強く刷り込まれたんだと思う。 

もう一度イーロン・マスクの世紀

 

 イーロン・マスクについて私は何も知らない。けれど「イーロン・マスクの世紀」という非常にスケール感のあるタイトルに私は惹かれている。

 だってそうじゃないか。時代どころか、世紀だぞ。そんな存在はそうそう、いない。

 「シヴィライゼーション レボリューション」の中ではとにかくテクノロジーを加速度的に発展させることが勝利への近道となっている。

 イーロン・マスクは過去の偉人たちと同様に加速度的に何かを進める存在に違いない、私はそんな風に感じている。

 

 

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