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狂気の左サイドバック/一志治夫

あらすじ

 本書「狂気の左サイドバック」はサッカー日本代表にすべてを捧げた男・都並敏史が「ドーハの悲劇」に至る過程で、その裏側でどのよう闘い、どのように苦悩し、そして彼および彼らが何故敗れたのかを記したノンフィクション作品である。

 

少し長い前置き(FIFAワールドカップロシア大会)

 この文章は'18サッカーワールドカップロシア大会の最中に書かれたものである。

 もっと詳しい時期を記述しておくとグループリーグ一試合目のコロンビア戦に2-1で

勝ち、次のセネガル戦、ポーランド戦を控えている時期の文章となる。

 現在までのサッカー日本代表をとりまく状況について書いておくと、サッカー日本代表アジア最終予選でオーストラリア代表を破り、予選第一位で本大会出場を決めた。その後、W杯が始まるわずか1ヶ月前に代表監督であるヴァヒド・ハリルホジッチ日本サッカー協会はコミュニケーションの理由という、不可思議な理由で解任し、西野朗技術委員長を新監督に迎え、ロシア大会本戦に挑んだ。

 もともとハリルホジッチ時代も高い評価ではなかったサッカー日本代表ではあったが、監督解任騒動によりその人気は地の果てまで落ちた。今回の監督解任の本当に理由については、一部の噂としてハリルホジッチ前監督が代表選出に際しスポンサーから熱く支持されているベテラン選手を選ぼうとしなかったため、日本サッカー協会の逆鱗にふれ、スポンサーに対する忖度(そんたく)した結果のことではないか、とまで言われている。その結果、口の悪いサッカーファンやスポーツ新聞からは「忖度ジャパン」というありがたくない呼称を彼らに与えた。

 事実、NHKの人気番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」の中で、日本代表の背番号4番を背負う本田圭佑は、ウクライナ戦ではハリルホジッチ監督の期待すること(縦パスと裏へ回る早い展開)をあえてやらなかった、後ろへボールを回して攻撃を組み立てようとしていた(そして得点も勝利も出来なかった)、という構成で語られていた。

 直接的には本田圭佑自身の言葉として「ハリルに全て服従して選ばれるのは恥ずかしい」とまで言い切った。

 一般的にハリルホジッチはデュエルと早い縦パスを主なキーワードに戦術サッカー、具体的には相手の長所を消すようなショートカウンターのリアクション・サッカーを行うと考えられていた。一方、本田圭佑が主張するいわゆる「俺達のサッカー」はポゼッションによって相手チームを崩すパスサッカー、これでなければ本戦で勝ち上がっていくのが難しいと本田圭佑は言う。

 「マイアミの奇跡」でブラジル代表を破った西野朗監督を新監督として迎えたサッカー日本代表は、直前の練習試合ではガーナとスイスには敗戦を喫するものの、パラグアイ戦でなんとか勝利をつかみ、コロンビア、セネガルポーランドとの本番を迎え、結果として日本サッカー協会は賭けに勝ったようにも見える。

深夜のラジオCM

 本書「狂気の左サイドバック」はドーハの悲劇(1993年10月28日)の翌年、一志治夫の取材をもとに書かれた作品である。つまり90年代前半に書かれ出版された書籍ということになる。この作品は第一回小学館ノンフィクション大賞を受賞しており、小学館から出版されている。

 なぜ今さら「狂気の左サイドバック」を取り上げてるのかといえば、それは私の脳みそにへばりついた薄暗い記憶を洗い落とす作業に他ならない。

 当時、私は部屋を真っ暗にして深夜のラジオを聴くことが好きで好きでしょうがなかった。その時、深夜のラジオ番組の合間に「狂気の左サイドバック」のCMが何度も何度も繰り返し、流されていた。ちょうど23時から深夜1時くらいまでの時間帯だっただろうか。深夜にひっそりとこだまする「狂気の左サイドバック」というタイトルはあまりにも不気味で、何か狂気を含んだ事件を扱っている物語のようにしか考えられなかった。さながら「ドーハの悲劇」の裏側で猟奇的な殺人事件が起きていたようでもあった。

 この深夜のラジオCMはノンフィンクションの単行本を売るよりは、ピンク・フロイドのアルバムを販促することに向いている出来栄えに私は感じた。

 今にして思えば創設されたばかりのノンフィクション大賞受賞作品を小学館が必死に盛り上げたいという意図があったのだと思うが、しかし「狂気の左サイドバック」というタイトルと、深夜のラジオCMは不気味さを増すばかりであまり効果があるようには思えなかった。

 その殺人事件ではないであろう、ノンフィンクションの物語を20年以上経過した2018年のロシアワールドカップ大会中に読もうというのがこの文章の趣旨だ。

都並敏史少年とサッカーマガジン

 「狂気の左サイドバック」とはつまり、ワールドカップアメリカ大会アジア最終予選でついに試合に出場することの出来なかったサッカー日本代表サイドバック都並敏史の異名であり、苦闘の物語である。

 この物語の冒頭、都並敏史サッカー日本代表に愛を捧げる少年として描かれている。日の丸をとにかく愛し、ありとあらゆる持ち物に日の丸をつけ、日章旗を持参で代表の応援に行き、中学生時代はともすると「右翼」との揶揄をされるほどだった。

 もちろん都並は日の丸が好きだったわけではなく、サッカー日本代表の虜ということだった。けれど、それがすなわち彼にとって日の丸をまとう、ということだった。

 そんな都並のバイブルが月刊サッカーマガジンだった。競馬関係者が、ダービーの日に一年が終わり、ダービーの翌日から新しい1年が始まるというように、都並にとってはサッカーマガジンの発売日である毎月21日が起点だった。日の丸小僧・都並少年にとってはサッカーマガジンの発売がすべての座標軸の中心だった。

 都並敏史が初めてサッカーマガジンにのったのは高校生三年の時のことだ。

 日本で最初に発足した本格的なサッカークラブ、読売クラブに所属していた都並は、高校三年の終わりにはスルスルとトップチームへ昇格した。そう、プロになったのだ。

ハンス・オフト

 都並敏史は日本代表として、’82ワールドカップスペイン大会、'86ワールドカップメキシコ大会のアジア予選に代表サイドバックとして参加するものの本大会の出場は叶わず、'90ワールドカップイタリア大会には代表メンバーとして招集されることもなかった。もっとも元日の丸小僧である都並敏史は日本で行なわれた代表戦はすべて観戦したそうだ。

 もはや代表に縁がなくなてしまったかと思った都並だったが'94ワールドカップアメリカ大会予選の代表メンバーとして招集をされた。

 その時に監督となったのがハンス・オフト。オランダ生まれの元フォワード。外国人としては初の日本代表監督となった。日本サッカーリーグ時代のコーチ、監督を経験するなどもともと日本とは縁のある人物だった。

 

 オフト・ジャパンは決して順風満帆な出だしというわけではなかった。

 日本代表の主将、柱谷哲司はオフトが自分たちをレベルの低いものとして扱っていると感じていた。事実、ハンス・オフトの行った指導はヨーロッパでは育成レベルで行なわれていたことだったとされている。オフトが日本代表監督となったときにはJリーグ開幕前夜の時代だった。つまり日本にはプロサッカーはまだない時代だった。

 

 日本サッカーの父と言われているデットマール・クラマーは60年代日本代表のコーチに就任すると代表選手たちにボールのパス/トラップの方法、インステップキック、インサイドキックといった基本技術から指導したと言われているが(それくらいに日本選手の基礎技術は低かった)、オフトもボールの蹴り方、フリーキックの蹴り方にまで口を挟んだ。この扱いに三浦知良ラモス瑠偉は不満を口にした。

 ハンス・オフトフリーキックの蹴り方に口出しをしたものの、自分でボールを蹴って見せるをことを最初の段階ではしなかった。これもカズやラモスの不満度を高める一要素となった。

 

 オフトが強い信念を持ち、彼が招集した日本代表選手たちといくどとなく、ぶつかり対峙したのは当たり前のなりゆきだった。

 なぜなら、当時の日本サッカー協会はアマチュアあがりの日本人監督にそもそも限界を感じ、世界と渡り合える強さを外国人監督に求め、その結果選ばれたのが、オフトだったのだ。監督に求められていたのは強い意思と強いリーダーシップと強い実行力だった。

三浦知良ラモス瑠偉

  ラモス瑠偉は当初、オフト体制に対してはっきりと批判的だった。そして主張をした。「もっと自由にやりたい。自分たちの思ったとおりにやりたい」

 三浦知良も良い気分はしていなかった。オフト・ジャパンとはつまり「スター選手はいらない」「エースはおかない」といった組織的なサッカーで、彼の目指すものとは一致しているわけではなかった。

 そんな中、都並敏史には不思議と反発心はまるでなかった。まずはグランド上で結果をだしたいとの思いが強かった。

 

 ラモス瑠偉三浦カズはオフトの選んだ代表選手の中では、圧倒的にプロ意識の高い選手であり、プライドの高い選手だった。これはおそらく現在の日本代表の選手のそれに近いものだと推察できる。自分たちのやり方、考え方で何かを成し遂げてきた選手ということだ。

 

 初期のオフトジャパンでのラモスや三浦カズの話を読むと、ハリルホジッチ解任までの日本代表で起きたことと何かが違っているようには思えない。ラモスや三浦カズのプロ意識とアマチュアリズムが同居するさまは、今の日本代表と本質的に同じように感じる。

 ところで、オフト・ジャパンは日本サッカー史の中で初めて自分たちよりも格上の相手に対して、きちんとパスを回していくサッカーを確立した代表とも言われている。オフト監督への反発が中和していく過程で、日本のパスサッカーの原型が出来上がっていったのだ。

 

 これは完全に個人的な意見だが、私は代表チームというのは代表監督のもの(もっと正確に言えば日本サッカー協会のもの)で、選手は代表監督の引いたグランドデザイン/戦略/戦術に従い役割を演じるべきであると考えている。それができない選手はプロフェッショナルではないと信じて疑わない。

ワールドカップアジア最終予選

 ハンス・オフトによってサッカー日本代表は整備されつつあった。

 ダイナスティカップアジアカップで好成績を収め、都並自身もこの新チームに手応えを持っていた。

 事実、ホーム・アンド・アウェー方式で開催されたワールドカップアジア予選1次リーグをアラブ首長国連邦UAE)、タイ、バングラデシュパキスタンの4カ国相手に7勝1分けとし、無事アジア最終予選に駒を進めることに成功させた。

 ここまでは都並敏史にとっては理想的なサッカー日本代表となりつつあった。

Jリーグ開幕と都並の骨折

 ワールドカップの一次予選が終わるとJリーグの開幕が待っていた。

 Jリーグが開幕すると、日本サッカー界はアマチュアの時代を終え、プロの時代となった。

 これは単なる看板の掛替にとどまることなく、多くの選手に今まで以上の報酬と注目とプロ意識と人気が植え付けられる出来事となった。

 実際、Jリーグの開幕に合わせて、元イングランド代表のリネカー、元西ドイツ代表のリトバルスキー、元ブラジル代表のジーコらスーパースターが登場し、日本サッカー新時代を盛り上げた。

 この期間に都並は左の踝(くるぶし)を骨折をしてしまう。疲労骨折だった。レントゲンを取ると左足首に白い筋が映っていた。

 この物語のタイトルである「狂気」がここからはじまる。

狂気とは

 日本の左サイドバックは人材不足で、都並に変わる最適なバックアップの選手は日本中どこを探してもいなかった。もちろん海外リーグに日本人選手が所属する時代でもなかった。都並の持ち味は、守れる選手でありながら、タイミングの良い攻撃参加であり、ある種理想的なサイドバックの選手ということであった。攻撃と守備のバランスがよく、センタリングの質が高く安定した選手は都並以外にはいなかった。

 替えが効かないということは、それはつまり悲劇でもあった。

ハンス・オフトは都並骨折の報を受けると、コーチの清雲とともにJリーグの試合を70試合も見た。代表のバックアップメンバーを探すためだ。サイドバックは運動量の多いポジションということもあり、若い選手がサイドバックを務めることが多い。若い選手ゆえの安定感のなさもあり、オフトと清雲は都並の代役を見つけることはついに出来なかった。

 都並の代役が見つからなかったこともあって、オフトは都並に早期の復帰を切望した。

 

 都並自身も早期の復帰を目指すため、西洋医学だけでなく、東洋医学、気功、温泉治療、線香治療、カイロプラクティクなどなんでも出来ることに挑戦をした。

 都並の足は万全とは言えなかったが、試合にでることが可能なくらいには回復していた。正確には回復していたかのように思えた。

 最終予選の地カタールへ赴く6日前の練習/紅白試合までは、都並もオフトもその他チームメイトも都並は最終予選に出場すると考えていた。実際、紅白試合や練習には都並は麻酔を打てばサイドバックとしてのパフォーマンスを十分に発揮することが出来た。ただし、麻酔が切れると都並は激痛のためにホテルでもんどり打つことになった。

 カター行きの2日前の夕方の出来事だ。都並が最終チェックのためレントゲン写真を取ると左足踝にはうっすらと筋が入っていた。骨折線だった。

 都並は混乱した。それでもオフトはカタールに来いと言った。

 

 オフトは都並の左足踝のレントゲン写真を見て決断していた。

 都並を一試合フルで試合で使うことはまったくもって難しいであろうと。ゲーム中のどこかのポイントで短く使えるかどうかの判断が必要だと。

 

 都並の足は決して良い状態ではなく、試合に出場をすれば確実に左足を再度はっきりと骨折をし、今後のサッカー選手としての選手生命を絶たれるどころか、日常生活に影響が出るような怪我をしかねない状況の中でも代表チームに帯同した。

 対戦国にたいして都並が出場するかもしれないというブラフをかけるためでもあり、サッカー日本代表はそういったブラフを必要としていた。さらには本当にピッチに立つ可能性すらもあった。都並を起用するかどうかの悩みはオフトの頭の中でも駆け巡っていた。

 試合に出ると再度、足が折れる可能性がある。それは今後の選手生命に関わるものであり、もはやスポ根モノのアニメや漫画にも近い状況だった。それフィクションではなく現実のものだった。

 

 日本を離れる直前オフトから言われた言葉は「記者には何も言うな、お前は普通のっ状態だ」だった。

 都並自身は、そう言われると前線に行く兵士に、大将が命令するようだと感じた。思わず「イエス、サー」と答えたい気分だった。けれど、一方で「本当は俺は足が折れているんだ、特攻隊として頑張って行くんだ」と言ってしまいたい気分でもあった。

 

 都並はカタールに到着すると麻酔を打って練習に参加した。非公開の紅白戦に参加するとメディアは都並の復帰は近い、イラン戦で復帰するだろうと報じた。

 この練習の代償はすさまじい激痛となって都並を襲った。バスに乗り込む頃には一言も口を聞ける状態ではなくなり、冷や汗がたらたらと流れてきた。

 カタールにいる間中、都並は激痛とつねに闘っていた。そして激痛と同時に、一方で骨が完全に折れ、砕けるかもしれないという恐怖とも闘っていた。

 

 アジア最終予選の初戦、サウジアラビア戦は累積イエローカードの関係でもともと都並は出場できない試合だった。その後の4試合、イラン、北朝鮮、韓国、イラクの試合で都並はベンチで静かに出番を待っていた。それはもしかすると本当に足が折れて、選手生命が絶たれる可能性があることを知りながら。

 

  結果として、都並はアジア最終予選に一試合も出場することなく、サッカー日本代表ドーハの悲劇にてワールドカップ本戦出場を逃すこととなる。

江尻、三浦ヤス、勝矢

 都並が試合に出られない期間、何人かの選手が左サイドバックを努めた。

 彼らもある種、この「狂気」の犠牲者でもある。

 最初に左サイドバックをテストされたのは江尻篤彦。所属チームのジェフユナイテッド市原では中盤の左サイドの選手だ。オフトはわずか45分で江尻に左サイドバック失格を言い渡す。オフトが欲していたのは結局のところ「都並のコピー」だった。江尻はそういった選手ではなかった。

 次に左サイドバックとして試されたのは三浦泰年三浦知良の兄である。彼もまた左サイドバックの選手ではなかった。都並と同じヴェルディ川崎の選手でポジションは守備的ミッドフィルダーだった。

 三浦ヤスは初戦のサウジアラビア戦にサイドバックとして出場する。カタールでは都並と同室だった。ここで都並の壮絶な状態を知ることになる。そして都並がおそらくフルで試合に出られないであろうことも。

 2戦目のイラン戦を落とすと三浦ヤスはオフトから今後サイドバックとして起用しないことを告げられる。都並と同室であり、都並の状況を知る三浦ヤスにとってこれは苦悩でしかなかった。

 三浦ヤスが左サイドバックから外された後、このポジションを守ることになるのは勝矢寿延だった。勝矢は守備よりのサイドバックだった。結果的に最終戦まで勝矢が左サイドバックを守ることになるが、彼にもう少しばかり攻撃参加の能力があったならば、オフトも都並もここまで苦悩はしなかっただろう。

 ともかくドーハの悲劇にて94年のFIFAワールドカップアメリカ大会は夢と消えた。 

その後の左サイドバック

  ところでオフトの次の代表監督はファルカンが努めている。ジーコソクラテストニーニョ・セレーゾらとともにブラジル代表の黄金カルテットの一角を占めたスター選手だ。彼はオフトとは異なり、練習の時に自らフリーキックを見せ、代表選手に好意的に迎えられた。ワールドカップで活躍をし、選手たちに好意的に迎えられたファルカンは左サイドバック岩本輝を選び、背番号10を与えた。けれど、これは不発に終わり、ファルカンもあっさり解任された。

 加茂周岡田武史監督時代の左サイドバック相馬直樹がつとめ、新時代を感じさせるものだった。ここではじめて日本代表はワールドカップ本戦に出場することになる。私も個人的に相馬直樹は好きな選手だった。

 その後のフィリップ・トルシエフラット3のディフェンスラインでサイドバックをおかない守備陣系で日本を初のグループリーグ突破に導いた。

 Jリーグの成功に大きく貢献し、日本でもレジェンドの扱いを受けているジーコはその次の代表監督となった。彼は左サイドバックに、トルシエ時代に主に中盤として活躍した三都主を起用した。日本代表では珍しく左利きのサイドバックとなる。ファルカン時代の岩本輝も同様に左利きだったためブラジル人監督は、左サイドバックは右利きではなくて、当然左利きである、という信念を持っているのかもしれない。

 オシム時代の左サイドバックは駒野がつとめていたが、岡田武史監督が再登板すると長友佑都が抜擢されることとなった。そして今('18ワールドカップロシア大会)に至ることとなっている。

 都並以降のサイドバックは人材が豊富で層が厚いとは言えないが、それでも優秀でタフな選手によって支えられ世界的な比較で考えても、むしろサイドバック排出国とまで言えるのは不思議な結果ではある。 

日の丸サッカーはなぜ敗れたか

 これが締めの文章となる。

 ここではなぜサッカー日本代表がドーハで敗れたかを著者である一志治夫氏ではなく、私が考えたい。

 一番最初にこの作品が世に出たときには「狂気の左サイドバック」のあとに「日の丸サッカーはなぜ敗れたか」というサブタイトルがついていた。これは後に、「日本代表チームに命をかけた男・都並敏史の物語」へと改題される。

 おそらくは「日の丸」という言い方と、都並敏史の行為がバンザイアタックのように日の丸特攻隊を想起させることを出版社が嫌ったからではないかと思う。

 こういった言い方をすると私はが、バンザイアタックをかけなかったから日本代表が負けたと考えたと解釈しているように誤解されそうだが、それはまったくもって逆だ。

 今では、ワールドカップ予選を当たり前のように通過し、本大会で何が出来るかがテーマのサッカー日本代表ではあるけれど、90年代初頭の代表は、たった一人の選手のバックアップにも苦労し、個の力を頼った神風特攻隊のごとくバンザイアタックをかけるかどうかを真剣に考える状況が簡単に発生するほどに、人材資源も戦略も戦術も枯渇していたということだ。

 90年代までのスポ根モノは圧倒的に何かを犠牲にして、一か八かの賭けをおこない勝利する、いや時に敗北する展開の物語が多かった。それ以外のストーリーの選択肢はあまりなかったように思う。時代が20年ほど経過し、物語の幅は昔より膨らんでいるように私は感じている。物語を読み解く幅が増えた分だけ色々な可能性は大きくなったと私個人は感じている。

 あれはやはり負けるべくして負けた。それがドーハの悲劇だったと私は考えている。

 

 

 

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