拝啓、本が売れません/額賀澪
あらすじ
本書「拝啓、本が売れません」は、出版不況の中、様々な場所へ出向き、様々な人と話をし、一冊でも多く自分の本を売って自分の寿命を延命すべく右往左往する、平成生まれの自称ゆとり世代作家・額賀澪の挑戦の記録である。
この本との出会いについて
内容についての感想を書く前に、私がどうしてこの本を読むに至ったのか書いておきたい。
直接的な、本当に直接的な理由としては書店の店頭でたまたま手に取って、面白そうだと思ったから購入をした。書店の入り口付近の目立つ位置にたまたま本書が、平積みで置かれていて、私は表紙を見て、中身をパラパラと確認し、なんとなく良さそうだと思った。それだけのことだ。
著者の額賀澪という人がどんな人なのかは、この「拝啓、本が売れません」を手に取るまで、まったく名前も知らない作家さんだった。
この本の何に惹かれて私は手に取り、購入にいたったのだろうか。
それは私自身が何者であるかということと関わりがあるのかもしれない。
重要な要素としては私はおっさんである。いや、いきなりそんなことを告白されても困るとは思うが、これは重要な情報でもある。
私は、自分の職業というものが未だによくわかっていないが、WEB上において、それは決してクリエイティブなものではないが、何かを制作したり、誰かを集客したり、何かを販売したり、それが実態のあるものであったり、そうでなかったりする、そんな仕事についている。そして、それは必ずしも右肩上がりの事業ではない。
元気のない出版業界に親近感がわかずにはいられない、ということなのだ。
マーケティングの書としての「拝啓、本が売れません」
まず最初に、著者の額賀澪は、元電撃文庫の編集長・三木一馬氏の元へと赴く。電撃文庫といえば、もちろんライトノベルの世界では大メジャーな文庫レーベルである。その元電撃文庫の敏腕編集者という肩書で紹介される氏は、現在は株式会社ストレートエッジの代表取締役でもある。
この本で語られる内容はマーケティングの基礎と言ってしまって差し支えないと思う。
い.想定の読者を絞り込む
ろ.良い作品を作る
は.ターゲットに届けるために努力をする
マーケティングとは平たく言ってしまえばこういうことだ。その筋をきちんと通す過程がマーケティングそのものなのだ。この書では、これがわかりやすく書かれている。
ストレートエッジの三木代表は言う。今は情報過多の時代であり、受取り手側も「自分が楽しめるのはどれなのか?」と困惑する状況。そのために、送り手側が「これはあなた達の楽しめるものですよ」と電車の行き先表示のようなのを準備する必要があると語る。
著者である額賀澪は中高生をターゲットに文芸作品を書く作家だ。2015年に第二十二回松本清張賞と第十六回小学館文庫小説賞を受賞して「屋上のウインドノーツ」でデビューしている。
この「屋上のウインドノーツ」の内容について三木氏は「キャラクターが弱いですよね」と言い放つ。この小説は単行本の発刊から2年後、文庫本になっている。その際にライトノベルのようなキャラクター押しの表紙に差し替えられている。
三木氏が言わんとしていることは、行き先表示と内容が一致していない。読み手の事を考えているとは言い難い。つまり上にかいてあるマーケティングの「いろは」が一致していないとの指摘をしている。
虐げられていたオタクたち
三木氏は世代としては私の世代に近い。
氏は自分が中高生の頃の思い出を語っている。
「僕が中高生の頃ってねー、パトレイバーが好きな奴はいじめられたんですよ。オタクだー!オタクがいるぞー!って」
でも今は違うんですよね、これが。そう続けた三木さんに、堪らず頷いた。
「アニメを観たり、ラノベを読んだり、好きなキャラのグッズを鞄につけたり、そういうことにオープンになったというか、やっても許される社会になりましたよね」
この感覚は大変よく分かる。はてなブログでも私に近い世代の人が書くオタク系ブログはだいたい、大変、とってもこじらせている。
いや若い世代でも、もちろんそういった方もたくさんいるが、けれど比率が全然違うように感じる。
今の若い世代はオタク文化に寛容だ、と三木氏は語るが、彼の考える想定の読者とは若干ステレオタイプで、三木氏の中高生時代のオタク観が強く反映されているように思える。
「彼はいじめられているんですね。学校が大嫌いで、クラスメイトも嫌いなんです。で、いつも図書館に逃げ込んでいる。そんな彼が楽しんでくれる物語を常に僕は求めています」
だから自分の関わる物語にはカタルシス持ちたい、とのことなのだ。
額賀澪の書いた初期の作品は必ずしもカタルシスのある、分かりやすく言えば、「苦労やピンチを乗り越えて、勝利をつかむ」といったラスト迎える内容ではない。厳しい現実を突きつけるもの、だそうだ。
それは、三木氏の考える想定の読者に届ける内容とは異なるということだ。
もちろん額賀澪と三木氏は今回、初めて会ったわけで、作家と担当編集者という関係性ではない。三木氏は額賀作品の想定の読者を考える立場にはない。けれど、額賀澪は三木氏にマーケティングの筋をきちんと通しているのか?と問い詰められている気分となっている。
スター書店員
2人目の取材先として、東北のとある書店の店員が選ばれている。この「さわや書店」は2016年頃より、特異な文庫本の売り方として全国に飛び火した「文庫X」の発祥の地でもある。
額賀澪に同行する編集者、ワタナベ氏はさわや書店の松本氏に直球の質問を投げかける。
「ぶっちゃけ、今の日本に苦しくない書店なんてないと思うんですよ」
「儲かってるし未来に不安もありませんっていう書店があるなら行ってみたいですよ。地球の裏側だって行きますよ」
わかってはいたけれど、あまりにもストレートな物言い。書店に未来があるなんて誰にも思えないし、将来のことなんてまともに考えられない、これが斜陽の産業に関わるものの正直な思い、ではないだろうか。そして業界にいる人間はその答えを避けつつ日々を過ごしている。
この問いかけに対し、さわや書店の松本氏はこう返す。
「僕も長く本屋やっていますけど、書店って昔は情報収集の場だったんですよね。本が情報を得るための重要な手段だった。もうこんな話、聞き飽きたでしょうけど、ネットとかスマホとかがこれだけあふれてれば、書店はもう情報収集の場じゃないんですよ。だから<<情報収集のその先>>が、さわや書店のコンセプトなんです」
ひとつ面白いと思ったことがある。松本氏の話の中で、ネットとスマホが並列であるかのように語られていること。普通に考えるとレベル感をあわせるため、こういった言い方はしない。ネットという広大な世界があって、そのデバイスのひとつとしてスマホがある、というのが一般的というか、おっさんの感覚では正しい。けれど、ネットとスマホという言い方が、今の時代にあった、正解に近い物言いんだろうな、と思う。
そんな正しい感覚を身につけた人が書店の進むべき道として「情報収集のその先」をコンセプトとしてとらえている。
ウェブ、メディアミックス、表紙
「拝啓、本が売れません」の著者である額賀澪は、WEBコンサルタト大廣氏、映像プロデューサー浅野氏、ブックデザイナー川谷氏と出会い、どうしたら本が売れるのか?の答えを徐々に掴んでいく。それはWEB上の展開からの認知であったり、映像化までの近道であったり、既存からの脱却であったりする。
特にブックデザイナーの川谷康久氏については、印象的なブックデザインをおこなっているので見ていただきたい。
見ていただくと気がつくことがあると思う。
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この記事の一番上に戻っていただいて「拝啓、本が売れません」の表紙を見ていただければわかると思うが、この著書の表紙は川谷康久氏が担当している。
なるべく巻き込む人を多くする作戦
額賀澪はまるでRPGでパーティをふやしつつ冒険をする勇者のようである。
「拝啓、本が売れません」は「なるべく巻き込む人を多くする」作戦が採用されている。著者はお供に編集者を従え、各地に飛び回り、たくさんの人に出会い、知恵を、勇気を、多くの味方を、様々な武器を得ていく。
その結果として、この「拝啓、本が売れません」が出来たということになる。カバーデザインは最後に出会った川谷康久氏が担当している。
タンスの角に足の指をぶつけちまえ
私には嫌いな言葉がある。「死ね」というやつだ。
この呪詛の言葉を誰かに向けて言ったとする。その相手が、どんなに嫌いな相手であったとしても、仮に、何かの間違いで死んでしまったとする。もちろん、私の言葉にそんな力はない。けれど、それは最高に寝覚めの悪い状況だろう。
そんな気持ちの悪い状況を避けるために、「死ね」なんて言うべきではない。けれど、腹が立つことがある。どうしようもなく腹立たしいという人はいる。その状況のための代替の言葉として「タンスの角に小指をぶつけちまえ」という地味な不幸を願うことは、決して悪いことではない。
額賀澪は語る。
「毒なら持ってますよ!人より多めに抱え込んでますよ!朝井リョウさんと住野よるさんの本を書店で見かけるたびに『タンスの角に足の指ぶつけちまえ」と思ってます」
なんでも朝井リョウがデビューした時の小説すばる新人賞に応募して一時落ちしたそうだ。住野よるについては、デビューが一週違いで、気がつけば「君の膵臓を食べたい」がベストセラーとなり差がついたことを意識しているとのことだ。
また自身のデビュー数週間後に又吉直樹が「火花」で芥川賞を取ったことを、印象的な出来事として語っている。普段本を読まない人が書店に来ることになるきっかけとなった、と。
これが「なるべく巻き込む人を多くする」作戦の原風景となっている。
「拝啓、本が売れません」感想とまとめ
マーケティングを取り扱う書として考えた時にこの書はかなり優れている。
「世界一わかりやすいマーケティングの本」という帯をつけて書店におけば良いと思う。
ただし、この書はマーケティングを語った書としては優れているが、この本自身のマーケティング戦略については失敗しているかもしれない。
「拝啓、本が売れません」にはいくつかの仕掛けがある。
表紙のカバーデザインについてはかなり斬新だ。
また、巻末に文藝春秋社より2018年6月頃に刊行予定の「風に恋う(仮)」の冒頭部分が特別付録として収録されている。冒頭部分と言っても、かなり長く一章まるまるという話だ。他社より刊行される小説の一部が先行して掲載されるというのは異例ではないだろうか。
ところで、この特別付録を読んだ感想としては、私(おっさん)は著者が考える想定の読者ではないな、ということだ。
確かに思えば、この書の中で、何度も何度も著者自身が「ゆとり世代」であることを強調している。私は当該の世代ではないため、なんだか痛々しいなという感想を抱いていた。
何故、この人は自分をカテゴライズして語るのだろうかと。いや、もちろん笑いを誘うためだとは思う。おそらくは同世代感で共有されるべき自虐ネタなんだろうな、と思った。私と同様の感想をいだいた読者、他にもいるんだろうか。
私が言いたかったことは、著者が想定した読者のもとにはこの本はあんまり届いていないんじゃないか、と。
「本が売れません」という言葉に意味することは2つあるように思えて仕方がない。クリエイティブな側面としての悩みと、物販としての現実的な悩み。
もちろん現実的には先にあげた二つが螺旋のように絡み合ったいるのは分かっている。
私がこの書を手に取った理由としては、何かを販売したり、誰かを集客したりする手助けとしてこの本が何かの役に立つかもしれないと思ったからだ。そこには決してクリエイティブな側面はない。そしてある種、思っていたことに近い内容でもあった。
でも、それはおっさんに刺さる内容だったんじゃないかな、と思った。
あるいは、10代20代の読者は今回狙っておらず、おっさんを釣り上げようとしているなら、私はうまく釣り上げられたことになる。著者の掌の上でくるくると踊っていたことになる。
それとも、そもそも若い人がクリエイテイブな側面の物語や、夢のある物語を好むというのはおっさんの幻想なのか。