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小沢健二はジョン・タイターなのか (ライブツアー『魔法的 ~』が終わってしまわないうちに)

ライブ 音楽 雑文 感想 日常

 

 小沢健二はおそらくは未来人だ。

 しかもタイムリープしてる。

 

 2016年5月31日の小沢健二・ライブツアー「魔法的 Gターr ベasス Dラms キーeyズ」名古屋公演1日目を見てそう思った。

 小沢健二のライブ(名古屋公演1日目)の感想を少しだけ書きたい。

 

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最初に

  もちろんいつだって、何についてだって、そうではあるけれど、特に小沢健二のことを言語化することは私にとって荷が重い。

 今回のライブツアーは未発表・書きおろしの新曲が多めに披露され、しかも特徴的なことの一つとしてその歌詞が、演奏前または曲によっては演奏中に後ろのスクリーンに映しだされていた。

 新曲の歌詞は独特の世界を想起させ、父親となった小沢健二という存在を感じさせる内容でもあり、都市での生活でもあり、違う世界に迷い込んだ非日常のようでもあった。怪獣と魔法と親子の暮らしと魔神とサメと変身ヒーローと宇宙の力と導きと願いが一緒にある世界だった。それは混沌そのものだった。

 歌詞だけが強烈だったわけではない。 

 小沢健二と6人のバンドメンバーは時に独特の振付で踊り、音源化されている既存の曲もアルバムやシングルとは異なるアレンジで楽曲が味付けされ、シンガロングをいざない、さらには新曲でも独特の振り付けの踊りを観客にも要求し、本編最後の曲では「今から歌詞を覚えてください一緒に歌ってください」とまで言い放ち、音楽と歌うことと、踊ることとステージ上のメンバーとその後ろの歌詞と、とにかく情報の洪水を引き起こしていた。

 ステージ上と観客席を巻き込んだ総合芸術だったといって差し支えないと思う。

 一瞬足りとも、少しの情報であったとしても歌詞も音楽もリズムもグルーヴも絶対に見逃さないぞ、そして小沢健二の表情、声、手振りぜーんぶ持って帰るんだ、そんな不思議な緊張感がずっと続いていた。

 一般的にアーティストがデビューから時間が経つと、新曲の演奏は実のところネガティブな要素を多分に含んでしまうことがある。オーディエンスが新曲なんて求めていないからだ。往時のヒット曲だけを演奏してほしい、特にアルバム/シングル未発売の自分の知らぬ曲などアーティストの自己満足でしかなく、聴く側にとっては苦痛でしかない。

 けれど今回の『魔法的~』は私にとってはアッという間の2時間だった。新曲7曲すべてが印象的で、素晴らしいライブだったと思う。

 魔法的にという言葉に違わぬ仕上がりとグルーヴがあったと感じている。

 

このライブまでの小沢健二

 小沢健二の全盛期は短い。

 彼がその印象的な歌詞をたずさえシーンに登場したのは1993年のことだ。

 1stアルバムが93年。2ndアルバムが94年。95年は怒涛のシングル攻勢。96年に3rd。シングルはその後もしばらく出続けるが21世紀を前に消息が途絶える。

 2002年唐突に4thアルバム「Eclectic」が出る。けれどアルバムリリースだけで、特にこれといったライヴ活動などはなかった。

 翌年2003年、出る出ると噂だけが先行されていたベスト盤が出る。ただし、アルバム未収録のシングル曲は半数以上が収録されることはなく、期待されていたものとは異なっていた。アルバムとしての体裁を重要視したのかイメージと異なる曲はすべてカットされたようだ。

 2006年、5thアルバム「毎日の環境学: Ecology Of Everyday Life」が発表される。このアルバムにいたっては歌詞すらなかった。全編インストゥルメンタルの曲で構成されていた。

 2010年、小沢健二は唐突に帰ってきた。「ひふみよ」と呼ばれるコンサート・ツアーで全国を回った。

 2012年には、「東京の街が奏でる」というコンサートを東京オペラシティにておこなう。この2つのコンサートでは新曲が数曲、披露されることになる。 

 とはいえ、音源のリリースはライブ盤と限定的な配信のみで本格的に帰ってきたかどうか、ということは私には判別がつかない。

 そして2016年、また唐突に全国ツアーが行われることとなった。全国規模のツアーということで言えば6年ぶりとなる。

 

開演まで

 ライブの開演までの間、後ろの2人組の雑談が耳に入ってくる。2人組はともに女性で、半休をとってこの「魔法的 Gターr ベasス Dラms キーeyズ」にやってきたようだ。最初、その二人は職場の新人がいかに使えないか、そして最近の新人は少しキツくするとすぐにやめてしまう、といった話をしていた。

 私はあたりを見回した。意外に客層は若い。いや、ものすごく若いということはもちろんないけれど、けれど00年代にぽっかりと空白の期間があり、10年代に入ってからは新しい音源のリリースもなく、フェスにもいっさい登場しないアーティストのライブの客層としては驚くほどに若い。カップルのようなお客さんもいる。夫婦ではなく、カップルといった感じだ。

 もちろん全員が若いわけではない。若い人もそうでない人も。色々な世代の人がいる。けれど全盛期が20年前のアーティストの客層にしては全般的にひどく若い。

 私がそんなことを考えていると、後ろの二人組の話が家庭の話に切り替わっている。子供の話題のようだ。耳をすませて聞いていると、どうやら片方のお子さんは中学生のようだ。年齢が若いわけではなく、見た目が若い風な人が多いということか。

 

昨日と今日

 客電が落ちた。ライブが始まる。

 ステージ上には真っ白な幕がはられ、中の様子が見えない。

 そのまま一曲目が始まった。

 そういえば、かつてこんなライブを見たことがある。コーネリアスこと小山田圭吾のライブの時だ。おそらくはアルバム「SENSUOUS」の頃。1曲目の最後かどこかで、「H・E・L・L・O」というメッセージとともに真っ白な幕がストンと落ちた。あの時は。

 

 「魔法的 ギター・ベース・ドラムス・キーズ」のはじまりは、小沢健二のデビュー・アルバム「犬は吠えるがキャラバンは進む」の冒頭を飾る「昨日と今日」だった。

  

犬は吠えるがキャラバンは進む」と言えばそのライナーノーツに書かれた文章が印象的で、実はその文章を引用としてここに貼り付けようとしたけれど、あまりにも長すぎてその文字数ゆえにライブツアーの感想なのか、1stアルバムの感想なの意味がわからなくなってしまうのでやめた。機会があれば別のところで紹介したい。

 

 幕の向こうでなる「昨日と今日」は1stアルバムの収録そのままというわけではなく、かなりエッジのあるアレンジで演奏されていた。

 「昨日と今日がくっついてゆく世界で」と印象的な歌詞が数度繰り返され、この「魔法的~」ではこの楽曲の間ずっと白い幕で覆われたままのステージを見つめることになり、やや不安な気持ちを煽られることになる。

 曲の後半、「Ah ah ah ah ah」と歌う部分でライトがステージに向けられ、少しだけ中の様子がわかる。単純ではあるけれど、痺れる演出だ。小沢健二を囲むように後ろにぐるりと4-6人程度のメンバーがいることがわかる。

 

フクロウの声が聞こえる

 

 私の予想に反して、1曲目の途中なり最後なりで幕が落ちることはなかった。

 白い幕には文字が映し出された。

 「フクロウの声が聞こえる」

 続いて、詩のような、親子の会話のような、よくわからない文章が映しだされた。

 内容としては、夕食の後パパが散歩しようと言い出した。

 チョコレートのスープのある場所までと。僕らはすぐに賛成した。

 そんな雰囲気だったと思う。

 多分、「フクロウの声が聞こえる」という曲の歌詞なんだろうな、とは思った。

 けれど、正直に言ってしまえば今の状況が何のことやらさっぱりわからなかった。

 歌詞と思われるものは、かなり長い時間映しだされていたように思う。

 言葉は決して難解な言葉ではなかったし、一つ一つの言葉はどこかファンシーで童話的な言葉遣いではあったものの、全体的には哲学的にも感じた。

 

 曲が始まった。

 もしかするとゴリラズのライブのようにこのまま、この幕と隔てられたまま、ずっとライブが進行していくのかと思ったその時、幕は降りた。

 小沢健二を中心に、後ろに6名のバンドメンバーが囲むような形で、ステージ上に登場した。

 

 小沢健二は顔にペイントをしていて、バンドメンバーもどこかインディオを思わせるような羽飾りを頭や帽子につけ、言ってみれば森の住人のようだった。

 

 こうしてベーコンといちごジャムが一緒にある世界のライブがはじまった。

  

シナモン(都市と家庭)

 「フクロウの声が聞こえる」が終わると今度は後ろのスクリーンにシナモン(都市と家庭)の文字が映しだされた。

 ああ、一曲一曲、わざわざ曲名と歌詞が紹介されるのか、とえらく親切だなと思った。そしてその歌詞がすごい。

 「シナモンの香りで僕はスーパーヒーローに変身する」とかもう、何を言っているのかわからない歌詞を小沢健二は平然と歌う。

 曲の途中メンバー紹介が入り、名前を呼ばれるとメンバーはそれぞれ変身ポーズのようなものを決め、とにかく小沢健二本人も含めて楽しげでありバンドとしても完成度がたかいことを認識させつつライブが続く。

ホテルと嵐

 この曲「ホテルと嵐」の時、曲目と歌詞がスクリーンに映し出されることはなかった。

 よく考えて見れば、1曲目の「昨日と今日」の時もそうだった。曲名と歌詞は新曲の時のみ、スクリーンに映されるようだ。

 「ホテルと嵐」は小沢健二3枚目のアルバム「球体の奏でる音楽」に収録されている曲。このアルバムそのものはジャズのテイストが強く、世俗離れしたところのある小沢健二がさらに、世間との距離を引き離しにかかった作品のように私は感じていた。 

 

大人になれば

  「わかる人は一緒に歌ってください」の言葉から始まったのは「大人になれば」だった。

 新曲の時には歌詞がスクリーンに映し出されている関係で、見ているこちら側としては、少しの情報も見逃すか、聞き逃すか、小沢健二の動きそのものだって全部フォローしてやるんだ。でも、後ろで踊りながら演奏しているハルカ(HALCALI)もなんだかなまめかしくて目が離せないとか思っているわけで、すでに私の情報処理能力はパンクしていた。だから発表済みの曲はどこか気持ちが安らぐ部分がある。

 と思っていた矢先のことだった。

 小沢健二の発した言葉はその時点ですでに「要望」ではなく「指令」なのだ。

 私たちがすべきことは歌うことでしかない。歌詞を覚えているとか覚えていないとかそんなことはたいしたことじゃない。あの「犬」のライナーノーツでも最後はこんな言葉で締めくくられていたはずだ。

  僕がこのCDに望むのは、車の中や部屋の中やお店の中で、小さな音ででもいいから何回かかけられることだ。歌詞なんかうろ覚えのままで口ずさんでもらったりすることだ。キャラバンは進むし、時間だって進んでいく。いつか近くで僕がライブをやることがあったら、来て一緒に歌ったり、踊ったりして欲しいと思う。

-小沢健二/犬は吠えるがキャラバンは進む ライナーノーツより-

 けれど、まだそれでは足りないと思ったのか、この曲の最後で何度も何度も何度も、本当に何度もスキャットを要求する。

 

涙は透明な血なのか?(サメが来ないうちに)

 「涙は透明の血なのか?(サメが来ないうちに)」とは随分とよくわからない曲名だなと、思った。

 むしろ題名だけをみるに、さすが元イルカということもあってサメは怖いということかと妙に納得をした。

 そんなものは序章でしかなかった。

 もはやうろ覚えでしかないけれど、子供が生まれた時に、本当に生まれたのはパパとママ、と言った歌詞で、ああオザケン父親になったんだな、と思わせておいて、返す刀で「波、波、波、見る、サメ、サメ、来る、来る、泳ぐ、泳ぐ、泳ぐ」ともうよくわからない歌詞を歌い、その振付を延々と繰り返し、さらにお客さんに振り付けを丁寧に説明する時間をさき、会場を高いテンションで巻き込み、ああ、いつもの小沢健二なんだなと逆に、安心すらさせた。

 とにかく、一つのことをゆっくり考えさせないぞ、という熱い思いが伝わってくるようだった。

 

 これが本当と虚構が一緒にある世界ということなんだろうか。

 

1つの魔法(終わりのない愛しさを与え)

  00年代に発表された曲で今回唯一演奏されたのがアルバム「Eclectic」から「1つの魔法(終わりのない愛しさを与え)」。 

 

 ところでこのあたりで、ジョン・タイターについて説明をしておく。

 ジョン・タイターは2000年にインターネット上に現れた人物で自らを2036年という未来よりやってきたタイムトラベラーだと語っている。

 残念ながら私のジョン・タイターについての知識はウィキペディア上のものでしかなく、ゲームの「シュタインズ・ゲート」の中でその名前が登場したから知っているだけのことだ。

 小沢健二ジョン・タイターなのか?という疑念については、もちろん言葉通りの意味ではない。

 あまりの小沢健二の軽やかさと、その前時代とのつなぎ目の無さから、小沢健二にとって我々生活者が本来過ごしてきた時間など、あたかもなかったかのように振る舞うその様への驚愕でしかないのだ。彼は未来人であり、タイムトラベラーではないのかと。

  

それはちょっと

 私がジョン・タイター小沢健二の関係性について考えていた頃、次の曲となっていた。

 「いち、にっ、さーん、しっ」

 今回のライブでは発表済みの曲はほとんどが原曲とは異なるアレンジ、下手をすると歌詞まで変えられたり一部カットされたりしてセットリストの中におりこまれていたが、この曲「それはちょっとだけ」は比較的、原曲に忠実なまま演奏されていた。 

 

  ところで、バンドのメンバーは本当に楽しそうで、最初から最後までがっちりとしたチームワークがあり、その演奏はフジロックで言えばヘヴンが似合う出で立ちと編成と雰囲気を持っていた。出来ることなら今年のフジロック2016に出演してほしいと思う、そんな仕上がりだった。

ドアをノックするのは誰だ?

 「次の曲はドラムの白根くんと、僕のギターだけで始まります」

 小沢健二がそういいだすと曲が始まった。

 正直に言ってしまえば何の曲が始まったか私にはわからなかった。

 ただ小沢健二ギター上手いな、とぼーっと考えていると

 「ワン、リトル、キスッ」

 ドアノックだ。ここでやっと小沢健二の代表作「ライフ」からの楽曲となった。

  やっぱり、まわりのお客さんは全員ドアノックダンスするのかな、とか考えていたが、意外にそんなことはなく、えらく控えめなオーディエンスだった。

 その代わりといっては何だけれど、ステージ上のハルカ(HALCALI)はキュンキュンだった。彼女のドアノックダンスを見ているだけですべてが愛おしく感じた。もう何を言っているのかわからないけれど、おっさんHALCALIハルカをなんて抱きしめたくなっちゃうんだろうってな感じでキュンキュンだった。

 東京のライブの感想を読むとZEPP東京には40代のボーダーのおっさんとかつてのオリーブ少女ばかりが集まったと書かれていたが、ZEPP名古屋においては小沢健二のファンは代替わりしているように思えた。

 

 小沢健二ジョン・タイターではないのか?と書いたのは伊達や酔狂ではない。彼は父親になりはしたものの、90年代から地続きでいくつかの時代を経由した後、この2016年にやってきている。それくらいに普遍的で何も変わっていない。間の空白期間はいったいなんだったのか、本当にそんなものは存在するのかというくらいにつなぎ目がない。

 このライブ「魔法的」の冒頭で歌われた「昨日と今日」はあの「世紀末を一足先に終わらせてしまった作品」こと「犬は吠えるがキャラバンは進む」の中の作品だ。

 「昨日と今日」の曲では厭世的で冷笑的な評論家きどりの言説をするものを行先のない皮肉屋と挑発し、2ndアルバムのライフでは一人、時代の先を行くような躁状態の振りきれた歌詞と曲を連発した。

  もはや先の時代から逆算して、現代のほんちょっとだけ先を歩いて見せているようだった。

 そして多くのアーティストたちがつまずいた00年代に小沢健二はそもそも存在していなかったんだ。そんなことを想像している。

 

 つい余計なことをいろいろと考えてしまう。このライブ会場は直感と推論が一緒にある世界なんだ。

 

流動体について

  バックのスクリーンに「流動体について」の文字が映しだされた。

 今回のツアーは演出方法でもわかるとおり、新曲がメインのライブツアーだ。

 しかも歌詞にひどくこだわっている。

 けれど、アルバムの発売を受けてのツアーでもないし、夏フェスで来日した海外アーティストにありがちなパターンのようにツアー終了後にアルバムがリリースされる見通しも今のところない。

 確かにCD/アルバムというフォーマットは現代にそぐわない形式となりつつある。だったら、そんなアルバムなどリリースせずにライブだけやってしまえ。歌詞が大事なら会場でスクリーンで大写しにしてしまえ。というのはわからないでもない。けれど、それは今までの様式美にとらわれている私たちにとってはかなりつらい。

 その感覚はもやは未来人のものではないのか。とすら、思えてくる。

 今回のライブツアーが何らかの形で音源に残るかどうかはわからない。けれど、録音をしていることは間違いがないので、まったく世にでないということはないと思う。

 出てほしいとも思う。それはこの切迫感のあるギリギリの感覚を思い出すきっかけのアイテムとして形に残ってほしいと願っているからだ。

 

さよならなんて云えないよ

  小沢健二がソロになってからのもっとも特徴的な武器は何かと言えば、声にあると思う。もちろん小沢健二の書く歌詞は重要なものだし、小沢健二の表情、ギター、よくわからない踊り、掛け声どれも大事な要素だ。けれど、その中核をになっているのは、声だ。しかもあの切ないギリギリの高音をだそうというあの瞬間だ。

 そしてその声で歌われる、今という日々は後々考えれば取り戻せない美しいかけがえのない時なんだ、といった歌詞は本当に切ない気持ちにさせられる。

 ギリギリの声、今失われようとしているかけがえのない日々。もうこんなに曲を聴くだけで泣きそうになるアーティストは、他にはいない。唯一無比といっていい。

 ただし、残念なことに今回の新曲ではその部分はフィーチャーされていない。

 もしかしたら小沢健二父親になったことと関係があるのかもしれない。けれど、こうも考えられる。「さよならなんて云えないよ」という名曲がある以上、もう、この模倣を、この感覚の拡大再生産をする必要なんてないんじゃないかと。

 

 本当は分かってる 2度と戻らない美しい日にいると

 そして静かに心は離れてゆくと

 -作詞作曲・小沢健二/アルバム「刹那」収録「さよならなんて云えないよ(美しさ)」より-

  

 とにかく小沢健二の書く曲で印象的なこととして、まるでずっと遠い先から過去のことを思い出話を語るような俯瞰した歌詞を、今のこととして歌うさまだ。

 けれどそういった人達/アーティストにありがちな、客観性に裏打ちされたどこかクールで冷徹な目も、表情ももっておらず、今という時代を歌っているような妙なリアル感があることだ。

 

強い気持ち・強い愛

  実はどこから、どのようにして「強い気持ち・強い愛」に突入したか覚えていない。私がジョン・タイターの事を考えていたからか何なのか、前曲の「さよならなんて云えないよ」の盛り上がりを引き継ぎ、いつの間にかこの曲になっていた。

 ただし言い訳をさせてもらえるとするならば「Stand up, ダンスをしたいのは誰?」の部分はなかったし「彼も彼女もファンキーなビート食らって dancing in the street, baby」の部分もなかった。

 けれど、そんなことはどうでもよくて名曲2連発は最高だった。

  

超越者たち

  さらにつなぎ目なしで新曲の「超越者たち」になった。

「強い気持ち・強い愛」と「超越者たち」はシームレスでくっついていた。

 スクリーンに映しだされた歌詞の中に「そう(そう) そう(そう) 長く (長く)」みたいに合いの手を入れる部分記されていた。

 まるでカラオケか何かのようだったけれど、一緒に「そうっ!」とこぶしを振り上げてみると、なんだかロックやポップスのコンサート/ライブというよりも戦隊物の主題歌みたいで楽しかった。 

 

天使たちのシーン

  「超越者たち」の演奏が終わった後、少し間がありライティングが変わった。

 天井からのライトは光射す感じで、今にも天使たちが降り注いできそうだとすら錯覚した。曲が始まるまでもなく、今から演奏されるのは「天使たちのシーン」だと気付かされた。

 これがある意味今日のハイライトシーンになるんだろうな、と思っていると「天使たちのシーン」が始まった。

 が、これがかなりアレンジが独特で、歌詞も私の知っているものがすべてではなかった。

 時に調子っぱずれのようにも聴こえ、不思議な感覚だった。

 曲は早々に次の曲につながり、残念ながら「カモーン」の部分はなかった。

  

飛行する君と僕のために

  ここが「昨日と今日」がくっついている場所であるならば、当然のように新曲と旧曲はくっついている場所でもある。

 「天使たちのシーン」は「飛行する君と僕のために」とくっついていた。

  

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 実は新曲の度にコメントが少なめになっていくことには理由があって、ライブの最中にはかけがえのない楽しい瞬間だと思ったのにもかかわらず、時間がたてば、楽しい思い出は徐々に消えていくんだ、ということを実感している。

 実際ライブ直後の私のメモにはこんな言葉が残されている。

 通常、新曲が多めのライブは失敗しがちだが、小沢健二はその固定概念を打破している。

            -2016年5月31日私のメモ書きより-

 けれど、そんなインパクトの強い新曲たちとは裏腹に時間が経過するごとに私の脳裏から新曲たちの思い出が剥がれ落ちている。 

 悲しいことだ。

 

 「魔法的」ライブツアーは絶望と希望が一緒にある世界でもある。

 

ラブリー

  「ひふみよ」ツアーの時の「ラブリー」には練習タイムというものがあった。コンサートの前半に後半に歌う予定の「ラブリー」の歌詞を一部変更するので、小沢健二指導のもと、みんなに覚えてほしいという趣旨だった。

 その時に変更された歌詞はこの「ラブリー」の中でもっとも印象的な部分でもある「それで、ライフ・イズ・カミンバック」の部分が改変されていた。また、サビの部分の「LOVELY LOVELY WAY ~」のところも「ラブリーラブリーで完璧な絵に似た」に変更されていた。

 

 小沢健二は不思議な男だ。

 なんというかあまりにも自分勝手な時間軸で生きている。

 

 90年代に活躍した小沢健二は、アルバムを作り、音楽雑誌では強烈なアジテートをし、コマーシャルなシングルを連発して、歌番組にも登場し、ツアーをおこなって、ジャズに傾倒し、そして1998年に突如として消えてしまった。本人的にはそんなつもりがなかったかもしれないけれど、少なくとも私たちの認識としては消えてしまった。

 00年代には2枚のアルバムを出すものの、00年代2枚目のアルバムには歌詞もボーカルもなかった。小沢健二はその最大の武器である、歌詞と声を、トラックにのせることをしなかった。

 歌詞を書くことができなかったのか、しなかったのか、歌うことをやめてしまったのか、あえて必要ないと思ったのかは私にはわからない。

 ともかく98年以降の小沢健二はずっと沈黙していた。

 復帰の場となった「ひふみよ」ツアーではいくつかの印象的な新曲を発表している。「苺が染まる」や「シッカショ節」も印象的ではあったけれど、やはりもっとも重要な作品は「時間軸を曲げて」ではないだろうか。

 がっちりと歌詞が書かれていることもあるけれど、その「時間軸を曲げて」というタイトルそのものが、どこか1stアルバムからダイレクトに直接つながっているような硬派な趣きがある。

 小沢健二ははからずも告白しているわけだ。自分が時間軸を曲げることができることを。

 

 今にして思えば不思議なことだった。「ひふみよ」ツアーはアルバム「ライフ」の中の楽曲は「おやすみなさい、仔猫ちゃん!」以外のすべての曲がセットリストの中に入っていた。もはやライフ中心の10年前の忘れものを取り戻しにきたようなツアーに思えた。以前におこなわれた「THE LIFE SHOW」「Disco To Go」「VILLAGE」などのツアーと「ひふみよ」ツアーはくっついているんじゃないかと、10年前のあの時とつなぎ目なしのシームレスなんじゃないかと思わせるあのツアーにおいて「ライフ・イズ・カミンバック」の歌詞が丁寧に打ち消されていたのだから。

 

 ところが今回の「魔法的~」ツアーでは「ラブリー」の歌詞の変更は告げられかった。小沢健二からこう歌ってほしいという要望はなかった。

 それならばと私は高らかに歌った、もちろん。

 「そーれーでー、ライフ・イズ・カミンバック!」

 みんなそう歌っていたと思う。

 これは小沢健二帰還の凱旋歌なんだ、きっと。

 小沢健二は新曲をどんどん書きおろし、歌詞もどんどん書く、そしてそれをみんなで歌う。これを帰還と言わずしてなんなんだ。

 後半サビの部分で、小沢健二は「ラブリーラブリーで完璧な絵に似た」と歌っていた。若干とまどったけれど、私も一緒にそう歌った。いいじゃないか。私たちはすこしづつ進化している。

 

その時、愛

 小沢健二はこの曲で最後の曲となることを告げた。

 会場からは「笑っていいとも」のお客さんのように「ええっー」という声がもれた。

 今から歌詞がスクリーンに映しだされるので、覚えて一緒に歌ってほしい、と小沢健二は言った。その言葉通り、歌詞がスクリーンに映しだされたが、これがとても覚えきれない量だった。

 

 小沢健二は最後の曲の中で「ちょっと出かけたライブの会場で/おぼえた歌を口ずさんでみる」とも歌っている。まるで「犬は吠えるがキャラバンは進む」のライナーノーツの最後の部分みたいじゃないか。

  とにかくこの曲を、私たちは必死でその場で覚え、歌い、踊った。

 この曲には振付がついている。小沢健二らしいとも言えるラブリーなものだった。

 曲そのものはシンプルで覚えやすい、最初にスクリーンに映し出された歌詞の部分は何度となくリピートされ、幾度も口にするうちに、自然とメロディが身につくような気分だった。

 曲が終わると約束通り、小沢健二とバンドのメンバーたちは引っ込んでいった。

  

アンコール

 アンコールで登場した小沢健二は、今日のライブでは7曲の新曲書きおろしがあったことを伝えた。

 「それでは新曲の7曲を振り返ってみましょう」というと、1曲づつ音がダイジェストで流れ、曲紹介をした。今日のライブのものか、それとも事前に準備されていたものかはわからなかったけれど、それぞれに独特の振付があったりして、ちょっと前のことなのに懐かしく感じられた。 

 小沢健二はなんだかニュース・ステーションで野球解説をしていた栗山英樹のようだった。

 アンコールでは今日の新曲から1曲だけ演奏したいと小沢健二は言った。

 曲は「フクロウの声が聞こえる」だった。一番初めに歌詞が映しだされた曲だ。

 別世界へ誘う役割を果たしていた曲は、現実世界へ引き戻すための渡し船もかねている。

 

 小沢健二の最後の言葉は

「今日最後のカウントダウンです、5、4、3、2、1、日常へ帰ろう」

 だった。

 

 客電がつき私が日常に引き戻されiPhoneで時間を確認すると20時57分だった。19時に始まったライブは2時間弱で終わりを告げた。

 こうして小沢健二の2時間、混沌と秩序が一緒にある世界は終わった。

  

小沢健二ジョン・タイターなのか

  

 ラブリーのところでも書いたんだけれど、今の小沢健二の書く歌詞は圧倒的だなと感じた。

 それは98年からの2010年くらいまでの期間が本当にすっとんでいるんじゃないか、タイムリープなり、タイムトラベルなりしているんじゃないかと思わせるものだった。

 もちろん00年代に出た2枚のアルバムのことが好きな方々がいるとするならば、とんでもない感想かもしれないけれど、少なくとも私はそう感じた。

 歌詞を書かなかったのか、書けなかったの、書く必要性を感じていなかったのか、それともやはりタイムリープしており、時間軸を曲げた関係で違う時代に書かれたものかはわからないけれど、今2016年に発表された歌詞には力があった。

 私は小沢健二の帰還とも書いた。

 けれど帰還したからといって今後小沢健二が新曲を次々と発表し、アルバムを作り、そのアルバムをたずさえてライブツアーをおこない、みたいなことを繰り返すようには到底思えない。そう思う理由は、いろいろな音楽評論家/ライターがそう言っているからでもなく、メジャーなレコード会社との関係が希薄に見えるからでもなく、小沢健二の過去の発言や歌詞からそう読み取っているわけでもない。実に、もっと漫画チックな理由であって、いっさい論理的な思考は介在していない。

 これが、小沢健二がもしも誰かの創作上の人物とするならば、再開でも始まりでもなくて物語の一区切りに思えた、からだ。理性に基づく理由なんて何一つない。

 1stアルバム、2ndアルバム、その後のシングル連発およびそれに関わるツアーにやっと落とし前をつけて、90年代の中途半端に終わってしまったミッションを完全な形で遂行させた、という風に私は受け止めている。

 もしも次があるとするならば、それは新章突入の煽り文句として語られる何かだ。

 

  ところで「ベーコンといちごジャムが一緒にあるせかいっーへ」と調子っぱずれに歌う小沢健二が未来人なのか、ジョン・タイターなのかどうかは結局のところ最後までわからなかった。

 彼がジョン・タイターだとするならばそのミッションとはなんだったのか。

 本当のことは見つかったんだろうか。

 もちろんそんな疑問に対する回答も証拠も誰一人期待していなかっただろうけれど。

 

 

 

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