観客とオーディエンスとお客さんとドストエフスキー
罪と罰のテーマとは
ラスコーリニコフという主人公が「一つの罪は百の善行によって償うことができる」という思い込みの元に計画を立て金貸しの老婆を殺すまでは良かったものの、偶然その場に現れた金貸しの妹までも殺してしまう。頭脳明晰という触れ込みでこの物語に登場したラスコーリニコフはここでいきなりあっさりと挫折してしまう。彼は自分の犯した罪に怯え物語中ずっと苦悩する。この苦悩こそが「罪と罰」のテーマだ。
ところで今日のこの記事で取り扱いたい内容はドストエフスキーの思想についてでも、ラスコーリニコフの苦悩についてでもなく、もっと違った事柄になる。
怒り
話が少しドストエフスキーから離れる。
何日か前に「EDMとトッド・ラングレン」というブログ記事を書いた。(→link)
この記事は冒頭こんな言葉から始まる。
ところが読んでいただければわかるが、結局のところ私はトッド・ラングレンの怒りには言及していない。
冒頭で提示したテーマについて何ら回答をしていない。
そもそもトッド・ラングレンが怒っていたかどうかすら怪しい。
いや、私なりには答えを導いているつもりではあった。若い世代の才能あるDJたちがその才能をいかした結果、ある意味無個性で機能的な音楽を垂れ流している現状にトッド・ラングレンなりの回答を示したことが今回のライブ・パフォーマンスである、と。
けれど、それらしいアンサーを力強く、あの日のトッド・ラングレンのストロング・スタイルのパフォーマンスのような姿勢を私は直接的に提示することはできなかった。なぜならば、あることがかなり気になっていたからだ。
それは観客とオーディエンスとお客さんについてだ。
観客とオーディエンスとお客さん
私は自分の文章がうまくないことを知っている。そして、おそらくこれはどんなに頑張っても、文章がうまくなることはないであろうことも知っている。
けれど何かの間違いでちょっとくらいは文章が上達したら良いのになあとは思っている。
そうラスコーリニコフのように苦悩している。
何について苦悩しているのかといえば、たとえば、文章を書く際に同じ言葉を何度も繰り返すことは一般にあまり得策ではない、と考えられている。そんなわけで、私はライブの感想のようなものを書く際にはライブ会場にいるライブ観覧者のことを、同じ文章内で観客と言ったり、オーディエンスと言ったり、お客さんと言ったりと幾度も言い換えをおこなっている。
そもそも良い文章であるならば同じ意味を持つ言葉が何度も出てくることからしてまずい。構造を工夫して、そんな問題が発生しないようにすべきだ、という指摘があなたにはあるかもしれない。
けれどそんな高級な手腕が使えるのであるならば、そもそもこんな苦悩はしない。
とにかく私は同じ記事内で、観客、オーディエンス、お客さんと順番に繰り返すのみだ。これらの言葉を使う時、私の中に意味の違いなんて何もない。
もちろんまともな文章を書く人たちにとって言葉にはそれぞれ意図がある。「観客」と「オーディエンス」と「お客さん」という言い回しでは、言葉の指し示す微妙なニュアンスが異なる。だから似た意味だからといって機械的に置き換えるなど愚の骨頂でしかない。
そんなことを考えていると昔のことを思い出した。
何について思い出したかといえば、つまりドストエフスキーの「罪と罰」である。
ロシア文学の登場人物
施川ユウキの書いた読書を扱った漫画「バーナード嬢曰く。」の中にこんな一節がある。
ソーニャと
ソーネチカは
マルメラードワでもあり
ソフィアでもあって
ロージャと
ロジオン・ロマーヌイチは
どっちも
ことなのか…
なんなのロシア人!!
これは「罪と罰」を読んでいると必ず起こる問題だと思う。
さっきまでソーニャと呼んでいたはずなのに、同じ会話の中で唐突に同じ女性のことをソーネチカと呼びはじめるため読み手は混乱する。漠然と読んでいるとストーリー上、今、何人の人物が登場しているのかすら読み間違う。
登場人物の名前で混乱してしまい、せっかくのストーリーが頭に入ってこない。
少しだけ解説するとソーニャは一般的な間柄で使われる呼び名で、ソーネチカは親しい間柄の時に使われる呼び名だそうだ。会話の中で相手に対して心が動き親愛の情を示したということだろう。言われてみればもっともだが、基礎知識がないと少しばかり難易度が高い。
おかげで私はロシア文学というものに「罪と罰」以降疎遠になっている。「カラマーゾフの兄弟」にも「悪霊」にも手が出ていない。同様にトルストイの「戦争と平和」がナポレオンのロシア遠征について扱われているということを知ったのはつい最近の話だ。
つまりだ、文章を書いている最中、ライブを見ているお客さんをオーディエンスと言ったり、観客と言い換えたりするのは、とても不親切ではないかと、ロシア文学と同じことをしているのではないだろうかと、頭のなかを常にぐるぐるぐるぐるしている。
そんなこともあって、私は前回の記事「EDMとトッド・ラングレン」ではトッド・ラングレンの怒りの正体を明示できずに文章が終わっている。
ところで「オーディエンス」という言葉を聞くとThe Stone Roses(ザ・ストーン・ローゼズ)の「90年代はオーディエンスの時代だ」という言葉を思い出すことが、90年代をロッキング・オンと過ごしたおっさんとしては正統な行為のように思えるけれども、残念ながら私にとってのオーディエンスという言葉の意味は、その昔、みのもんたが司会をしていたクイズ番組「クイズ$ミリオネラ」で回答者がクイズの答えに困った際にライフラインという救済策があり、その救済策の一つとしての「オーディエンス」というものがあり、回答者がどうしようもなくなった際にわらにもすがるような気持ちで「オーディエンス」と叫ぶ。私の頭の中にはこの時の「オーディエンス」という叫びが私の中にこびりついている。