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EDMとトッド・ラングレン

2015年のトッドラングレン

  音楽評評論家の渋谷陽一に言わせればトッド・ラングレンの音楽表現の原点は「怒り」だそうだ。

 

 フジロック・フェスティバル2015でのトッド・ラングレンのパフォーマンスは圧巻だった。フジロック当日およびその直後の苗場関連でTwitterのタイムライン上の話題を独占したのはトッド・ラングレンについてだった。

 今日はこの日の彼のステージのことについて書きたい。

  

  

トッドラングレンの新しいアルバム「グローバル」

   皆様にとってトッド・ラングレンというアーティストはどんなイメージだろうか。おそらくは彼の一般的なイメージというものは、The Beatlesザ・ビートルズ)に強い影響を受け時に強い愛情を音楽に注ぎこむポップ愛好家、そして宅録的に音を作り上げていくある種偏執狂的な部分もあるアーティストというものではないだろうか。

 いくつもの名曲と名盤を作り、日本で言えば山下達郎あたりを思い起こさせる立ち位置だろうか。

 

 トッド・ラングレンは2015年に入ってから新しいアルバムを発表している。タイトル名は「グローバル」。

 このアルバムは日本盤も発売されており、なんと日本盤だけのボーナス・トラックとしてYMOの「テクノポリス」のカバー曲が収録されている。

 私は通常、海外/洋楽アーティストのアルバムは国内盤を買うことはほぼなく輸入盤を購入することが常だが、今回ばかりはこのカバー曲に目がくらんで国内盤を購入した。

 YMOといえば70年代後半から80年代前半にかけて世界的に人気を獲得した日本のエレクトロ・ミュージック・バンドで高橋幸宏細野晴臣坂本龍一の3人からなるスーパー・グループだ。もちろんYMOの特徴はシンセサイザー/キーボードなどの機材を使用した電子音中心の音作りである。

 日本盤だけではあるもののYMO楽曲のカバーに象徴されるように、トッド・ラングレンのニューアルバム「グローバル」の作風は大胆に電子音/打ち込みを導入した、今風に言えばEDM(エレクトロニック・ダンス・ミュージック)への挑戦ということになる。

 

 もちろん80年代に活躍したYMOの楽曲を指してEDM、つまり若者を中心に受け入れられている最新の流行りものであり、今もっとも熱い音楽ジャンルのことである、と言い切るのは若干無茶だということは私も理解している。

 けれど、その無茶をトッド・ラングレンは軽々とやっているのである。1948年生まれの今年67歳になる男が。

 いや、別にトッド・ラングレンが完璧なまでのリサーチのもとに、今もっとも受け入れられているEDMたとえば、Avicii(アヴィーチー)やZedd(ゼッド)、Alesso(アレッソ)、Hardwell(ハードウェル)、Madeon(マデオン)のような楽曲に仕上げているかと言えばそんなことはなく、EDM?EDMねえ、、、といった感じで力技で押さえつけている感すらあって、むしろ、これが俺の考えるEDMなんだと言い切っている雰囲気があり、それ故にロックな佇まいのアルバムとなっている。

 

EDMとは

  そもそもEDMってなんだ。

 もちろんこの場において正確なEDMとは、みたいな話がしたいわけではない。EDMの意味や定義について語りたいわけではない。

 渋谷陽一のラジオを聴いていると毎週のように、EDMがすごい、世界中で流行っている、日本ではまだまだEDMが受け入れられていないが、今年に入ってからようやく日本でもEDMが受け入れられるようになってきた、けれどまだまだEDMの持つポテンシャルに比べればこんなもんじゃないと、だいたい毎回そんなようなことを語っている。

 なぜこの音楽評論家兼経営者がそこまでEDMに対してお気に入りなのかは、私には若干理解できない部分があるが、けれど、とにかく渋谷陽一曰く世界各国でEDMは流行っているらしい。それも爆発的に。もやは社会現象と言っても良いくらいではないだろうか。たとえばEDMのもたらす経済効果について真面目に語られていたりもする。

 

 EDMのアーティストと言えば数多くのオーディエンスの前で卓の前に立ち、自ら作ったアンセムナンバーをフェスで、スタジアムで、アリーナで、クラブで、イベントで、DJをする。時にはゲストボーカルが登場したり、大きなスクリーンを使ったりもするが、基本的には一人でプレイをする。

 EDMは音楽としてド派手であり、カラフルであり、鮮やかでEDM系のアーティストはどこか人気者のオーラを漂よわせている。同じ電子音楽系統であるテクノが頑固一徹職人の音楽 といった趣きでどこかストイックな雰囲気を醸し出していることと比較するとまったくもって逆方向への展開にも感じる。

 

 EDMのアーティストとして名前が上がってくる彼らはDJが本業というわけではない。彼らの本来の姿は音楽プロデユーサーであり、トラックメーカーであり、もっと言えばアンセムメーカーと呼んでもよい。

 楽曲はほとんどの場合においてノリノリなダンスナンバーで、BPMが高く、うるさいくらいに打ち込みと高音が多用され、けれどそればかりでなく時に切なく時にエモーショナルな曲を生み出し、新曲はどんどんヒットチャートを駆け上がり、ボーカルは毎回ゲスト歌手が起用され、話題性に事欠かない。すべてにおいて機能的。すぐにPVなどプロモーション用の動画が作られ、youtubeの再生回数はあっという間に跳ね上がる。場合によっては大物アーティストのプロデューサーを務めたりする場合もある。

 DJが本業ではないと書いたが彼らのライブではDJの立ち振舞いが重要な意味を持つ。客を煽って、煽って煽り倒す。そして、オーディエンスもそれに対してある種ロボットのようにレスポンスを返す。会場はあっという間に一体感を獲得し、ある種の盛り上がりを獲得する。音楽が生み出す高揚感を彼らの楽曲はたやすく達成していく。

 彼らEDMのDJはだいたいにおいて若い。驚くほど若い。日本に来日するふりをしてキャンセルを繰り返すアヴィーチーは26歳。今年サマソニに来たゼッドも26歳。同じくソニマニとサマソニに来たマデオンは21歳。ロッテルダム出身のAfrojack(アフロジャック)は28歳。スウェーデンのイケメンDJアレッソは24歳。EDM界の重鎮の雰囲気すらあるCalvin Harris(カルヴィン・ハリス)は31歳。

 彼らのライブにおける客層はやはり同様に若い。若い客層に若いDJ。

 もちろんDavid Guetta(デヴイッド・ゲッタ)やSteve Aoki(スティーヴ・アオキ)のようにベテランも多くいるが、それ以上に若いDJたちが次々と登場している。シーンが活発ということもあるし、たとえばフランス出身のマデオンがそうであるように世界各地から若い才能が次々発掘されていることも関係あるように思う。

 彼らは若き日のある種宅録から羽ばたいたミュージシャン達と同様に自宅で音を作り、彼らとは異なる手法つまり2010年代という時代をうまく利用し、その音源をネット上にアップロードすることにより一足飛びに成功を手に入れたのだろうか。

 インターネットがなかった時代からすると才能ある若者が成功を手にいれるまでのスピードが格段にあがったという理解でよいのだろうか。

 

EDMへの偏見と警戒

 日本でもいくつもイベントが開催されるようになり、多くのEDMアーティスト達が来日している。

 たとえば東京お台場で開催された巨大ダンスフェス「ULTRA JAPAN」。

 

 そういえば音楽サイトナタリーでサカナクションとザ・テレフォンズのメンバー2人が少し興味深い対談をしていた。

 

natalie.mu

 

 この対談の中でフェスに対するアーティスト側から考える現状というものが語られていて、とても意義のある対談だとは思うけれども、その流れでEDMについても語られている。

 

 「ULTRA」のときってあれでしょ? 新宿のキャバ嬢とかみんな休むんだってね。

 

 これがEDMに対する偏見を端的に表していて、素晴らしい。ほかにも、

 

 でもEDMはスポーツだよ。日本のロックもそうなってきてるけど。

 

 機能的ですよね。それはそれですごいことだと思う。問題なのはリスナーがそこから先に行かないことなんです。アヴィーチーとかゼッドとか聴いてる子は、ヘタしたらThe Chemical Brothersすら知らないかもしれない。その場が楽しければいいっていうものになってるでしょ。

 

そうだね。マイルドヤンキー層にウケる音楽はやっぱり売れるし、評価される。そういう新しく生まれたものに対抗しようとするのって無謀なんだけど、でも自分たちが思う音楽の面白さを問いかけていかないと、本当にただ機能性の高い音楽だけになって、音楽っていうもの自体がすごく悲しい結末を迎えると思う。

 

  私はEDMのイベントに行ったことはないし、そもそもキャバ嬢がたくさん来ていたとしても彼女たちは分かりやすくキャバ嬢であることを指し示す服装/ファッションなのかどうかすらわからない。

 そもそも本当にキャバ嬢がたくさん来るのかどうか、ということは話の本筋ではない。

 この場合のキャバ嬢という言葉は、おそらくは刹那的に生きている人たちの総称なのだと思う。その後の発言でマイルドヤンキーという言葉が出ていることからも想像ができる。

 音楽を刹那的な機能的なアイテムとして捉えている層の多くがEDMに流れていて、従来の音楽の持つ市場が縮小している。そんな話だろうか。

 

 EDMはそのド派手で高音キラキラでアゲアゲそしてエモーショナルな部分をつく音楽性ゆえか、既存のアーティスト/ファンからは好き/嫌いがはっきりとわかれる音楽ジャンルとなっている。

  これは日本国内だけの話ではない。たとえばNoel Gallagher(ノエル・ギャラガー)あたりは、まあいつものことながらEDM系のアーティストと衝突している。

 

お詫び

  トッド・ラングレンフジロックでのパフォーマンスについて書くはずだったがここまでひどく時間がかかった。

 しかも、今さら、EDMについての何ら目新しい情報のない基礎的なことを延々と垂れ流すだけのひどい内容だ。

 お詫びしたい。

 けれど、EDMとはどういったジャンルの音楽として考えられ、どういった人たちに何をもって支持されているのか。既存のミュージシャン達はそれをどう感じとっているかをざっくり書いておきたかったからだ。 

 

フジロック2015のトッド・ラングレン

  トッド・ラングレンフジロックの3日目場所はホワイトステージでの出演となった。

 ステージの真ん中にポツンとマイクスタンドが3本だけ立てられ、特にサウンドチェックもないまま、トッド・ラングレン登場の時間が近づいていた。

 客層はひたすらに年齢層が高く、40代どころか50代がメインではないかと思われるくらいにフジロックホワイトステージのオーディエンスは高齢化していた。

 たしかにトッド・ラングレンはレジェンドと言っても差し支えのないポジションのアーティストで、オーディエンスの客層が高いのはまだ仕方ないとしてもだ、どんなに頑張って見ても盛況とは言い難い客数だった。

 

 14:20となった。トッド・ラングレンの時間だ。

 

 よく見るとステージ上にあったのはスタンド・マイクだけではなかった。

 スタンド・マイク3本の後ろにDJ卓があり、そこへ知らない黒人がぬっと現れ一人アカペラで歌いはじめた。

 私たちは、その場にいたトッド・ラングレン目当ての観客たちは、目の前の光景がまったく理解できなかった。

 ほとんどの人の頭にクエスチョンマークが浮かんでいたと思う。

 もしかすると私はトッド・ラングレンについて何かを決定的に誤解をしていて、実のところ彼は黒人なのだろうかというところに思考が達したが、そんなわけあるかい。トッドは黒人ではない。

 ホワイトステージ全体に動揺が走った。

 黒人DJはおかまいなしに一曲歌い終わると満足気な表情を見せた。

 すると彼は突然何かを叫びだし、その直後、ステージ左側からタンクトップ姿のトッド・ラングレンがギターを携え現れた。女性ダンサー二人を引き連れて。

 けれど、残念なことにトッド・ラングレンの登場により会場の動揺がおさまることはなかった。

 この女性ダンサー二人は印象的で、赤や青の原色のレオタードにピンク髪と青髪といったドギツイ色合いで目がチカチカするくらいだった。

 まるで今時の若いギャルによるトッド・ラングレン老人の介護の現場にすら見えた。

 

 享楽的で刹那的な人生を謳歌するようなイントロが鳴り響く。

 

 「エビバーディ、エビバーディ、エビバーディ、クラップ・ユア・ハンズ!!!」

 

 トッド・ラングレンとそのダンサー達は大きく手を掲げ、オーディエンスに手拍子を要求する。

 EDMには当たり前の光景かもしれない。けれどトッド・ラングレンのライブで異なるものを期待していたオーディエンスはさらに戸惑った。

 呆然とトッド・ラングレンを見つめるか、ヤケクソになって手を叩くかどちらかの選択しかできないようだった。

 実は私も戸惑った。今年出たばかりのアルバムのM1の、明らかにキラーチューンでノリノリのナンバー「Evrybody」になぜ反応できないお客さんがこんなにもいるのかと。 あるいは

 ノリ方がわからないとかそういった問題ではなく、明らかに想定外の出来事が起きたといった様子のお客さんがたくさん発生していた。

 

 「エビバーディ、エビバーディ、エビバーディ、クラップ・ユア・ハンズ!!!」

 

 当たり前だがトッド・ラングレンはおかまいなしに続けた。

 

 ちなみにこの曲の歌詞の大雑把に言ってこんな感じのことを歌っている。

 「誰もがモナリザをかけるわけじゃないし、

  誰もが映画スターになれるわけでもない、

  誰もが最新のファッションが必要なわけでもない、

  みんな、もう一度ちゃんと考えた方がいい」

  享楽的な楽曲ではあるけれど、人生の楽しさを抱きしめようといった歌詞ではない。

 

  2曲目「Flesh & Blood」の直前、トッド・ラングレンは1曲目でかき鳴らしていたギターを手放した。

  これを見て、今日のセットリストには往年の名曲などいっさい入っていない、もう今日はたとえば彼の代表曲「I Saw The Light」なんて決してやらないぞという、新曲メインの構成だという決意を悟ると、オーディエンスの平均年齢はグッと下がった。高い年齢層がかなり離脱したからだ。

 

 楽しげに踊るケバイ女性ダンサー二人に囲まれ、ハンドマイク片手にトッド・ラングレンは熱唱していた。時にグッとガッツポーズのようなポージングをして、まさにストロング・スタイルでオーディエンスと撃ち合っていた。

 私はあまりにかっこいいトッド・ラングレンに驚いた。

 かっこいいと言ってもトッド・ラングレンは67歳にしてタンクトップでお腹をつきだし、ステージ上をうろちょろとある種徘徊老人のように動きまわり、何がかっこいいのか言語化することは難しいけれど、とにかく、そこにはギターもドラムもベースもないけれど、ロックそのものがあった。それだけで充分だった。

 

 2015年のフジロックトッド・ラングレンが表現したものはお世辞にもEDMと呼べるシロモノではなかった。けれど、それで充分だった。

 

 おそらくはこのライブを見たかつての90年代のロッキング・オンのライターならば「トッド・ラングレン大勝利!!」というタイトルで記事を書いたであろう。

 そして私はそれは間違っていないと思う。

 

 

 

 

 

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