vs. おすすめ

おすすめブログのカウンターとして始めたはずが、気がつけば薄っぺらなブログ

おしゃれな文体

趣旨説明

 この文章は村上春樹伊坂幸太郎村上龍味噌煮込みうどんを一つのまな板に並べることによって私がおこなった「おしゃれな文体」についての考察である。ただし、そこには文学的な思考は一切介在しない。人はそれを八つ当たりと呼ぶ。

 
 
 

今日も八つ当たりから始めよう

 

 ご存じない方のために最初に説明しておくとこのブログ「vs. おすすめ」は八つ当たりから出来ている。詳しい成分比としては八つ当たり60%、嘘38%、世界への深い愛1%、誠実さ1%により成り立っている。つまり今回取り上げる私の八つ当たりに関しては当ブログのメインコンテンツといってしまって差し支えない。

 

 何に対して八つ当たりなのか。

 まずは経緯から。

 少し前、私は伊坂幸太郎のアヒルと鴨のコインロッカーについて感想文を書いた。

 この感想文の出来がひどく気に入らない。自分の書いた文章ではあるけれど、私が「アヒルと鴨のコインロッカー」を読んだ際に得たいろいろな感情がいっさい伝わっていない。そのことにひどく落胆した。

 なぜなのか。なぜ伝えることができないのか。もちろん、理由はわかっている。文章的な巧拙の問題はあるにせよ、おそらく根本的な原因はそこにない。それでは、根本的な原因は何なのか。仮説としてはこうだ。私自身がこの作品を読んだことによって得たものの整理がついていないから、順序立てて文章を組み立てることができていない。だから伊坂幸太郎の書いている内容は村上春樹的だ、とかどうでもいいことをつらつらと書いているにすぎない。

 その後、あまりにも自分の書いた文章がひどいと感じたので、他の人は伊坂幸太郎について、「アヒルと鴨のコインロッカー」について、どんな感想を持ったのだろう?どのように表現したのだろう?と疑問に思いヤフーで検索した。

 どうでもいい話としては私は検索の際にヤフーを使うことが多い。結果的に帰ってくる答えが同じ内容であったとしても、通過する過程が違う。物語は何が語られるかももちろん大事ではあるが、どのように語られるのかも同じように重要だ。そう思わなければ小説なんて読む価値がない。歴史年表と理科年表だけあればいい。とにかく、あのグーグルの、世界に放り出されている感のあるトップ画面は好きでない。真ん中にただグーグルとだけ書かれていて検索ボックスがあるさまは、金持ちの家にお呼ばれされている時のような孤独感を感じる。何者ともつながっていない糸の切れた凧のような不安定さ。真っ白なティーポット、高級そうなティーカップ。私の人生からしたら異物だ。それよりは貧乏な我が家のごちゃごちゃ感のあるあのヤフーのあの感じの方が好意が持てる。やっぱり家が一番だよね、的な。

  話を他の人が書いた伊坂幸太郎のレビューや感想、解説、書評などに戻そう。そこでは驚くべき内容が書かれていた。ごく一部ではあるけれど。それは伊坂幸太郎の書く文章について「おしゃれな文体」と表現している人が少なからずいたことだ。

 その昔、読売巨人軍エリック・ヒルマンという投手がいた。彼は身長2メートルを越える大男で左投げ左打ち。もともとは千葉ロッテマリーンズ所属。千葉ロッテ時代の彼は好投手だった。けれどヒルマンは巨人へ移籍するとある言葉を口にして登板を回避するようになった。それは「違和感」。もっとも有名なフレーズは「左肩の上に小錦がのっているようだ」。2年間所属した巨人軍では合計6イニングの登板のみという結果になった。ただし彼の名誉のために言っておくとヒルマンは巨人退団後肩の手術をおこなっており、その怪我が原因で球界から去っている。

 何の話かと言えば伊坂幸太郎の文章についての評価「おしゃれな文体」に対して、ヒルマンが自身の左腕に感じたように、私は違和感を持っている。

 そして実のところこの「おしゃれな文体」という謎の言葉は前回私が「アヒルと鴨のコインロッカー」の感想文の際に引き合いにだした村上春樹の文章にもついてまわる謎のキーワードでもある。

  そう、私が八つ当たりしたい相手は「おしゃれな文体」という実態のない言葉を今回の仮想敵としたい。

 

村上春樹のどの部分がおしゃれなのか

 村上春樹伊坂幸太郎の文章が「おしゃれな文体」と呼ばれていることに対して私は違和感を持っている。納得がいかないことはいったん神棚にでもあげておく。なぜ「おしゃれな文体」などというよくわからない言葉でくくられるかその理由についていくつか考えてみた。それは相対的な部分から来ているのではないか、という結論にいたった。

 「おしゃれな文体」と呼ばれているが実際は普通に書かれている文章に対して、何か野暮ったく「おしゃれではない文体」と呼ばれる種類の文章が存在するため、相対的に村上春樹なり伊坂幸太郎の文章が「おしゃれな文体」として浮き上がるという仮説。

 

 Twitterで、ある時こんなツイートを見た。(記憶があやふやなので詳細は適当、誰のツイートかも覚えていない。ただしおおまかに文意はあっているはず)

 「村上春樹の小説を読んでいたら、普通にパスタをゆでたりしていて、そのおしゃれさにやられた」

  パスタを茹でるだけでおしゃれとか、いったいどんな生活をしているんだ?と私はその時は疑問に感じた。パスタなんてものは貧乏学生の必須アイテムであり、あまりおしゃれ食べ物には私は感じることはできない。けれど、今日の夕食を食べている時にその疑問は氷解した。

 

 このブログを書いている雨とかいうおっさんは愛知県に住んでいる。私の今日の夕食は愛知県民らしく味噌煮込みうどんだった。夕方、外に出かける用事があったので山本屋本店で味噌煮込みうどん(黒豚ロース入り、ご飯付き)を食べた。うまかった。名古屋めしとして味噌煮込みうどんは基本だ。ものすごくどうでも良い情報としては愛知県では味噌煮込みで有名な店は「山本屋 本店」と「山本屋 総本家」の2種類ある。「山本屋 総本家」の方が名古屋的なメニューが豊富だが、純粋な味噌煮込みの旨さという点では「山本屋 本店」の方がより優れていると思う。

 味噌煮込みうどんという食べ物は、愛知県ではひどくメジャーで、袋ラーメンのような即席麺として県内のコンビニや食料品店に流通している。スーパーマーケットにいけばお徳用の五個入りパッケージも普通に置いてある。当たり前のように買える当たり前の食べ物。私も家で手軽に昼食を済ませたい場合はこれを利用する。

 味噌煮込みうどんについてご存知のない方のために補足しておく。味噌煮込みうどんは愛知県で生産されている土鍋の中に八丁味噌という赤味噌の中とうどんを投入しぐつぐつ煮込む料理であり、味は濃く、見た目は決してよいとは言えない。しかし、うまい。見た目など問題ではないのだ。味噌煮込みの麺はもちろんスーパーアルデンテ、歯ごたえがあればあるほどよい。もちろんお店などで頼めばやわらかくなるまで煮込んでもらえるかもしれないが、そんなものは邪道だ。いざ、食べるとなると取り皿など使わない。土鍋の蓋に麺と具をのせて食する。土鍋の蓋は専用のものなので蒸気穴など空いていない。これが正しい味噌煮込みというものだ。

 だが、おそらくは、食事として自宅で味噌煮込みを作っているシチュエーションは「おしゃれ」ではない。私は村上春樹の小説を9割くらいは読んでいると思うが、村上春樹の小説の主人公がキッチンで味噌煮込みうどんを茹でている場面は記憶に無い。村上春樹の小説の登場人物は料理をする場面が多々あるが、彼もしくは彼女らが味噌煮込みどころか、味噌カツを作りそれを食器に彩りよくのせるシーンもなければ、土手煮や小倉トーストの朝食場面もない。いや別に名古屋めし限定でなくていい。村上春樹は関西出身でありながら登場人物がたこ焼きパーティーをおこなったりしないし、お好み焼きのソースについて髭剃りの哲学を語るようにこだわりを述べたりしない。

 少なくとも村上春樹の小説世界では、文体がどうかという問題はさておき、おしゃれから遠くかけ離れた料理のこだわりがでてくることはほぼない。

 いや、決してないわけではない。時として村上春樹はなぜか「コロッケ」に対して異常な執着を見せたり、「ホットケーキにコーラをかけて」食べる鼠(僕の相方)がいたり、下着を買うお金で「だし巻き玉子」を焼く機械を買った緑(ノルウェイの森)がいたりするが、その程度のことでしかない。彼らは味噌煮込みうどんに入れる玉子は半熟か生かで議論をしたりするなんてことは絶対にない。

 話が長くなったが、こうやって考えてみると確かにパスタは味噌煮込みうどんに比べれば相対的にではあるけれど、はるかにおしゃれな食べ物だと言える。

 つまり私が感じたことは、文体そのものではなく、登場するアイテムたちによって「おしゃれな文体」というよくわからないイメージを持たれているのではないか、ということだ。

 

ノルウェイの森」はどのあたりがおしゃれなのか

 村上春樹の小説がおしゃれと言われるようになったのはいつの頃からかわからないけれど、それを決定づけたのは「ノルウェイの森」の大ヒットからではないか、と思っている。

 「ノルウェイの森」は上下巻の物語となっており、発売から1年で上下巻をあわせて200万部以上を売り上げ、村上春樹はベストセラー作家と呼ばれるようになった。

 「ノルウェイの森」を読んだ方ならご存知だと思うが何故あんな小説が上下巻合わせてとはいえ、200万部も売れるのか理解に苦しむ。けれど、装幀に関するエピソードを読む限り、ある程度その流れが理解が出来る。

 村上春樹はこの「ノルウェイの森」に関しては装幀にかなりのこだわりをもっていたという話をきいたことがある。上巻は真っ赤な表紙に緑の文字、下巻は全面濃い緑色で赤い文字でタイトルと著者名だけが記載されるという作りになっていた。帯も上巻は赤い帯、下巻は濃い緑色の帯という形で、もともとは表紙のイメージを損なわないように配慮されていた。

 「ノルウェイの森」が発売されたのが9月の初旬。村上春樹はもともとそれなりには有名な作家であり、ファンも多い作家ではあったので、当初はその当時の知名度にふさわしいだけの売り上げはあげていたようだった。けれど、それは、そこそこの成功といったことでしかなかった。

 赤と緑との表紙が上下巻となり並べておくと書店での見栄えはよかった。出版社である講談社はそのことに気がついた。そこで彼らはあることをした。それは著者である村上春樹には相談せずに、帯をそれぞれ緑と赤から金色に変えた。これによりクリスマスにぴったりとくるおしゃれな雰囲気の表紙となり、「ノルウェイの森」は売り上げを大きく伸ばした、と言われている。

  以降はベストセラーとしてメディアに取り上げられ雪だるま式に売り上げを伸ばすこととなった。その結果が上下巻あわせて200万部以上ということになる。

ノルウェイの森」はどんなに頑張って内容を要約しても決しておしゃれな物語ではない。少なくともある程度内容をねじ曲げたとしても、おしゃれ物語に変換するには無理がある。

 それでも、金色の帯のついたクリスマスシーズンにジャストフィットした表紙を持つけれど内容的にはそこまでではない「ノルウェイの森」をおしゃれ物語にする魔法の方法がある。それはつまり、「飾っておくだけで、読まない」。そう、本を読むことはクールでもないし、洗練されてもいない。本は買っても読まない。これ最強。

 「ノルウェイの森」は読まれなかったことにより、おしゃれな物語の地位を獲得したんだ。

 

村上龍村上春樹の持つ雰囲気の違い

  ここまで話の成り行き上「おしゃれな文体」を持つ作家の代表として村上春樹を取り上げてきた。せっかくなので「おしゃれではない文体」を持つ作家の代表として村上龍を取り上げたい。

 村上春樹村上龍を比較したい。

 とはいえ、もともとこのブログは単なる八つ当たりであり文学的探求などではないので、この二人の文章を取り上げてその違いの比較などしない。雰囲気だけで語る。

 なぜ村上龍なのかといえば、世間一般に認識として村上龍の文章はおしゃれではないというコンセンサスがあると私は勝手に信じているからだ。 

 村上春樹がおしゃれな文体を持ち、村上龍がおしゃれな文体を持たないというイメージはおそらくふたつの印象の違いから来ている。

 

 一つ目は彼らの物語の主人公が持つイメージの違い。村上龍の書く物語の主人公たちはどこかパワフルで欲望に渦巻いている印象がある。私はそこまで多くの村上龍作品を読んだわけでもなく、数年前村上龍が「実は最近若い男を主人公とした物語を書いたことがない」と語った時、「そ、そうだっけ?」と思ったくらいに読んではいない。そんな私が村上龍の小説の主人公を語ることは何か違う気もするが、少なくともそんな印象がある。自分お欲しいものには手を出さずにはいられない人物像。物語を作る主人公が多いように思う。

 一方、村上春樹の主人公はわかりやすい欲望を表に出さない。自分を主張しない。あるのは、○○君(主人公の名前)は人とは違うんだよ、という周りの評価だけ。強い意志を持つけれど、基本的に物語に巻き込まれていく主人公。もちろん村上春樹の物語の主人公にも同様に強い欲望があるのだろうけれど、それをおくびにも出さない。

 自分の気持ちを熱く語ったり、行動的であることはおしゃれじゃないんだ。

 

 二つ目は村上龍村上春樹の本人のイメージの問題。

 まずは村上龍村上龍は昔からテレビに出演することが多く、メディア的にもよく顔を出していた。村上龍はいかつい容姿で、怖い印象があるが、テレビや雑誌で見る限り村上龍という作家はスーツの選び方や、腕時計なども身につけるものの選び方など、どういった方向性かは分からないけれどファッションにたいしてある種のこだわりがあるように思える。そういった意味では彼はおしゃれの部類に入る人物ではないかと思える。が、おそらくそんな印象は世間にはない。どちらかと言えば金満という言葉がしっくりくる。脂ぎっていて、流行りものにタイミング遅れで手を出し、バブルの香りがする中年。世界各地でその流行りものを追いかけ回す。経済と政治について自分の解釈を語らないと気がすまない。村上龍のそれらの佇まいは何かの強烈なコンプレックスの裏返しのように私には思えた。そんな彼のことを世間は決しておしゃれとは呼ばない。

  次に村上春樹。いや、村上春樹の容姿や外見、風貌、ファッションはどれもおしゃれじゃないだろというツッコミはもっともだが、その感想はインターネット時代のものでしかない。インターネットが普及する以前、村上春樹の容姿はあまり一般には知られていなかった。200万部も売る流行作家でありながら、どんな顔をしていて、どんな風にしゃべるのかなんてことは、多くのファンは知らなかった。少なくとも「ノルウェイの森」がベストセラーとなった時にはすでに海外にいて、それ以降しばらくの期間彼は表舞台に積極的に顔をだすこともなかったし、日本のメディアとも距離を置いていた。もちろん村上春樹覆面作家でもなければ、いっさいメディア露出しないといった方針でもなかったので、探せばいくらでも彼の容姿に関する資料はあったはずだ。けれど、一般的な村上春樹ファンはそうしなかった。なぜなら代替手段があったからだ。村上春樹は長編小説よりも短編小説の方が優れている、いや、やはり村上春樹の価値は長編小説にある、などの議論は何度も繰り返されてきた話ではあるけれど、実は村上春樹はエッセイの名手でもある。個人的には村上春樹の文章で一番最初に読むべきはエッセイではないか?とも私は思っているくらいだ。村上春樹のエッセイの多くには安西水丸というイラストレーターがイラストをつけている。このイラストの中に村上春樹本人も何度となく登場する。安西水丸の書く村上春樹は氏の味のある画風のとぼけた風貌で、おしゃれとは1万光年も距離があるような雰囲気ではあるけれど、人畜無害で毒気のないお兄さんという印象。それが80年代後半から90年代、00年代初頭において読者の頭の中の村上春樹の外見的なイメージを形作った。

 もうひとつ村上春樹村上龍と異なり経済、投資や投機、または直接的な金銭の雰囲気のすることについて意図的に距離を置いていたように見える。実際エッセイでもそういった儲け話に対する嫌悪感を何度となく繰り返し書いている。

 

 ギラギラしてぶよぶよとしたバブル中年の村上龍。長距離を走ることが好きで欲望をむきだしにしない毒気のない村上春樹

 そんな大雑把な分類の仕方もどうかとは思うけれど、本人達のイメージコントロールも手伝ってか、長い期間こんな印象で二人の作家は扱われてきたのではないだろうか。

 W村上という大雑把な枠組みでは二人の書く文章の実際のテーマがどうであれ、どちらかが「おしゃれ」でどちらかが「おしゃれでない」というレッテルを貼られるとしたら、結果はわかりやすいように思う。

 

正しいハルキストのあり方

 ノーベル賞の受賞者が決まる頃、もしくは村上春樹の長編の新刊が発売される頃になると不思議な人たちがメディアに取り上げられるようになる。彼らの名前は「ハルキスト」。村上春樹の狂信者だそうだ。

 私がメディアから得た情報から類推するに、彼らハルキストの行動パターンはこうだ。

 ・村上春樹の新刊が発売されると並んで買う。

 ・村上春樹の新刊をおしゃれなバーやカフェで開く。(ただし読まなくて良い)

 ・村上春樹についておしゃれなバーやカフェで語らう。(ただし読まなくて良い)

 ・村上春樹の作品を持ち歩いていることが大切。(ただし読まなくて良い)

 ・むしろ作品を読んでいることは邪道。おしゃれじゃない。

ものすごく偏見に満ちあふれた内容であり、一方的な妄想であることは認めるけれど、「村上春樹=おしゃれな文体」は、ああ、なるほど、彼らの布教のおかげか、と思えてきた。

 彼らが山本屋本店で味噌煮込みを食べながら村上春樹について語らってくれたならば、こんな風にはならなかったように思う。

 

最後に

 ここで私は力尽きた。

 文章が長すぎたんだ。

 本来ならここからは一気に反転攻勢し、おしゃれ的なものをデトロイト・メタル・シティクラウザーさんのごとくディスる予定だったが、その気力はもはやない。

 もともとこのエントリの始まりは伊坂幸太郎の文章についてだったような気がするが、もうそれも今さらどうだっていい。けれど、私のやりたかったこと、当初の目的、つまり八つ当たりは完了したように思えるので、ここでこの文章は終わりにしたいが、最後にひとつだけ。

  

 ところで冒頭の画像がなぜ、わたせせいぞうなのかと言えば、私の中でおしゃれで中身のないものの象徴としてわたせせいぞうがいるからだ。

 ここまで書いてひとつの事に気がついた。

 私の中では「おしゃれである」ことと「中身がない」ことは強くイコールで結びついている。

 だから私が興味をいだくものはおしゃれであってはいけないという、強い強迫観念がどこかしらにある、ということだ。そのため何かに八つ当たりをしたかったということに他ならない。

  それでは。

 

 

 

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