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アヒルと鴨のコインロッカー/伊坂幸太郎

 

 

 「アヒルと鴨のコインロッカー」は映像化が難しい作品と言われていた。けれど実はすでに2007年に濱田岳を主演として映画化されている。この映画については私自身は見ていないため、話の根幹である「あの部分」をどのように処理しているのか疑問で仕方がない。どのように扱われているんだろうか。

 

 今回は映画化された「アヒルと鴨のコインロッカー」の原作ともいうべき伊坂幸太郎の小説について感想を書きたい。

 

 そして、今日もいきなりネタバレから入ろう。この物語は叙述トリックにより成り立っている。それはつまり先ほど書いた「あの部分」のことを指している。勘の良いミステリーファンにはこれだけでも充分ネタバレとして通じるはずだ。

 

  ネタバレも完了したところで「アヒルと鴨のコインロッカー」の大雑把な構成とあらすじを書く。

 「アヒルと鴨のコインロッカー」では現在の椎名の物語と、2年前の琴美の物語が交互に繰り返される。そして共通する人物が何人も登場する。

 現在の椎名は物語の冒頭、河崎と名乗る男から本屋の襲撃を誘われる。2年前の琴美はブータン人ドルジと一緒に柴犬を探す。そしてそこでペット殺しの若者たちと出会う。

 何故、椎名達は本屋を襲撃しないといけないのか。現在の物語に登場しない琴美はいったいどうなってしまったのか。2年前の物語である病気が発覚した河崎は、それをどうやって乗り越えたのか。ペットショップの店長である麗子は何故信用してはいけないのか。謎が謎を呼び、どんでん返しがあるエンターティメント小説。

 

 ここからが「アヒルと鴨のコインロッカー」に関する私の感想となる。そして私の感想は伊坂幸太郎村上春樹の共通点から始めることになる。

 

 村上春樹ファンはこの「アヒルと鴨のコインロッカー」を読んで、伊坂幸太郎村上春樹の影響を受けてないと言われたならば、信じられないと答えると思う。それくらいに過去の村上春樹作品の雰囲気に似ている部分がある。

  

 冒頭、現在の物語の主人公である椎名が本屋を襲っている部分は、その唐突さ、軽やかさ、会話の様子からいっても村上春樹の短編「パン屋再襲撃」のオマージュではないかと思わせる独特の雰囲気がある。

 現在の物語と2年前の物語というふたつの物語が交差しているところは「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」のような趣きがある。

  いや、2つの物語が交差する手法はよくある手法だし、村上春樹も以降の作品で好んで使っている。けれどこのふたつの作品にボブ・ディランの歌、声が登場するところまで共通している。そう、この「アヒルと鴨のコインロッカー」ではボブ・ディランが重要な意味を持つ。

 

 私は村上春樹がどんな作家なのか?と尋ねられたら、おそらくは「文章のうまい作家」と答える。村上春樹の書く文章は無駄な部分は少ないし、比喩も巧みで研ぎ澄まされている。村上春樹はわかりやすいことをわかりやすく書く作家ということで間違いない。もっと優れた文章を書く作家もいるけれど、残念ながらそういった作家は私の知る限り作品数をあまりたくさん残していないように思う。

 たまに村上春樹のことを比喩がわかりにくい、文章に余計なものが多いという批評を受けることがあるけれど、その見解には疑問が残る。そういった方々はそもそもあまりきちんと文章を読んでいないのではないかと疑ってしまう。

 なんの話かと言えば伊坂幸太郎の文章の話だ。伊坂幸太郎の書く文章はわかりやすく平易な言葉で書かれている。この部分が実はもっとも村上春樹に似ている部分だと私は感じている。

 

 一部の伊坂幸太郎のファンはこの村上春樹に似ているという評価をネガディブに受け止めているはずだ。だがそれは誤解だ。

 

 ウィキペディアを読むと伊坂幸太郎村上春樹の影響は直接的には受けていないといくつかのインタビューで語っている、と書かれている。これが真実なのかどうかは私にはわからないが、もし本当であるならば、伊坂幸太郎村上春樹の持つ作家としての共通点はやはり普遍性にある、ということになると思う。

 わかりやすいことをわかりやすく書くということのゴールが村上春樹的な文章スタイルになるのではないかと思っている。

 

 けれど逆に似ていない部分もある。それはやはり伊坂幸太郎はエンターティメント小説の書き手として優れているということだ。伊坂幸太郎の書く物語は村上春樹のそれとは異なり、わかりやすく、きちんとした決着がある。

 

 「アヒルと鴨のコインロッカー」に話を戻す。

 主人公の「僕」こと椎名の少しコミカルとも言える出だしから物語が始まる。まずはシッポサキマルマリという独特のネーミングの猫と出会い、ボブ・ディランの「風に吹かれて」を歌っていると、次にカワサキと名乗る男と出会う。彼にとってはボブ・ディランは神様だった。もし椎名が歌っていたのが「風に吹かれて」でなければ椎名は本屋襲撃に誘われなかったのかもしれない。彼は隣の隣の部屋に住む外国人のために広辞苑を本屋から奪いたいと椎名に告げる。

 話は唐突に2年前に戻る。こちらは「わたし」こと琴美の物語。ブータン人のドルジとやはり河崎の物語。こちらはコミカルな出だしから徐々に深刻な雰囲気が漂ってくる。何かの予感めいたものを読者はかんじることになる。そして読み進めていくと、どうやらこちらがメインの物語であるということに気がつく。

 

 

 この作品は伊坂幸太郎の代表作であり、名作と呼ぶにふさわしい。特に印象的な点は読みやすさ。文体の素晴らしさ。構成の良さ。テンポの良さ。会話の愉快さ。

 そしてもっとも素晴らしいのはタイトルのつけ方。

  この物語はずっと読み進めていくと途中でタイトルの「アヒルと鴨のコインロッカー」の「アヒルと鴨」の意味について理解ができる。

 そして同時に「アヒルと鴨」の物語だったのだということを知ることになる。これだけでも充分に読む価値のある内容だと私は感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 この物語ではボブ・ディランの「風に吹かれて」が強くフィーチャーされている。この曲はボブ・ディランが黒人の公民権運動を歌った歌だと言われている。曲の冒頭で「どれだけ歩けば、人として認められるの?」と問いかけがあり、ここに対応する部分では「その答えは風の中さ、風が知ってるだけさ」と歌われている。この場合の風とは白人のことをさす比喩とも言われている。もちろん伊坂幸太郎がアメリカ社会の黒人問題に切り込むはずもなく、おそらくは日本社会の外国人に対する意識の問題をテーマのひとつとして取り上げていると思われる。

 

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