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Baby's on Fire/電気グルーヴ

 
 
 
 「Baby's on Fire」について語りたい。
 そしてここに書かれているのは私がいかに「Baby's on Fire」が好きかという妄想の物語でしかない。
 

 電気グルーヴの25周年記念ミニアルバム「25」について何かを書くか、その「25」の冒頭M1を飾る「Baby's on Fire」という楽曲そのものについて書くか非常に迷ったが、まずは「Baby's on Fire」について書きたい。

 

 先週の木曜日(10/30)、私はZEPP名古屋へ電気グルーヴの25周年記念ライヴを見に行った。セットリスト的にはデビュー前のインディーズ時代から最新曲も含めてすべての年代の曲を演奏している。その際にもっとも印象的だった曲がこの「Baby's on Fire」ということになる。

 極端な言い方をしてしまえば電気グルーヴのキャリア最高傑作ではないかとさえ思えた。 また無茶で大袈裟なことを、と思われるかもしれないが私は比較的本気だ。

 

 

 先日もミュージックステーションにも出演し、電気グルーヴは「Baby's on Fire」を演奏した。恐らくは嵐やV6などジャニーズ目当てであろう大方のTV視聴者たちをポカンとさせたことは間違いない。

 ただ私の知る限り一部のTwitter上ではその佇まいがセカオワのパクリバンドなどとして扱われたり、楽曲にがサカナクション感があるなどと言われたり、TL上でも「電気グルーヴ大嫌い、送りバント大好き!」などと懐かしいフレーズも飛び出し、ある種の好意をもって受け入れられ上々の成果を得たようにも感じられる。

 

 

 

 「Baby's on Fire」は私にとってはびっくりするぐらいのキャッチーな曲であり、「Baby's on Fire」は電気グルーヴの魅力を凝縮した楽曲としかいいようがない。

 

 

 では私にとっての電気グルーヴの魅力とはなんなのか?

 

 

 一言でいってしまえば石野卓球の声そのものということになる。

 あわせて電気グルーヴは音楽ジャンルとしてなんなのか?ということを考えていくと「電気で作るグルーヴ」という以外の答えにはたどり着かない。

 

 

 初期の電気グルーヴはエレクトロポップ/ハウス/ロック/ニューウェーヴその他なんでもありなサンプリングを駆使したトラックに石野卓球ピエール瀧の毒気のある弾丸(当時はそう聞こえた)かつおもしろラップがのるかなり珍しいスタイルの音楽だった。

 その後さらに純粋なテクノ/アシッド・ハウスの影響を受け、一時的にであるけれど電気グルーヴとして、より機能性重視で、よりフロア的な楽曲を作るようになった。

アルバムで言えば「VITAMIN」と「DRAGON」あたりの頃だろうか。

 が、その路線からもさらに音楽的な進化を遂げ「A」という名盤を制作する。電気グルーヴ版「ドクター・ヘッド」とも言えるこのアルバムのリリースを見届けると、主要メンバーだったまりん(砂原良徳)は脱退した。まりんの離脱からいったんタガが外れてはしまいはしたものの、勢いと力技で傑作アルバム「voxxx」を作り上げる。

  「voxxx」というアルバムが発表されたのがちょうど2000年。デビューからこの時期までの約10年間、電気グルーヴの音楽にはわかりやすい前進があった。

  その次に、電気グルーヴ電気グルーヴ名義として新たに楽曲を作り、きちんと歌詞を書いたアルバムは2008年リリースの「J-POP」ということになる。

 きちんと歌詞を書いたというものの、それは彼らが新たに歌詞を書き下ろしたという意味であって、「モノノケダンス」以外の曲はほぼほぼ歌詞を理解することは難しい。「J-POP」というアルバム以前もそういった傾向はあったものの完全に語感重視となって、歌詞としての理解されるという目的は失っていた。

 トラック的にも以前よりは尖った部分と時代の音を鳴らすといった雰囲気が薄まり、どちらかと言えば回帰といった印象が強かった。この印象は「J-POP」だけでなく「YELLOW」、「20」、「人間と動物」とその後リリースされるアルバムにも引き継がれる。

 歌詞が意味を失われ、トラックにも先鋭的な雰囲気が消えている。これだけ言ってしまうと何ひとつ良いことがないように思う。けれど、それでもやはり電気グルーヴは進化している。

 

 初期の電気グルーヴにももちろん意味のわからない歌詞の曲や語感重視の言葉選びの楽曲も多かった。けれど、それは面白い言葉を何とか歌詞に組み込もうという格闘だったように思う。

 

 石野卓球という存在は私にとって何なのか?ということを言えば、それは世界で一番かっこよく「電気グルーヴ!」と叫ぶアーティストということになる。彼が叫ぶ「電気グルーヴ」とか「DG」の叫び声は他の追随を許さない。彼のシャウトこそが私にとっての石野卓球のすべてだ。

 

  25週年記念ライヴの際に過去曲において石野卓球(とピエール瀧)はむやみやたらと叫んでいた。初期曲はトラックにたいして無理やり言葉数を詰め込んだラップテイストの楽曲が多いため、正直な感想を言えばライブでは若干苦戦していたという印象だった。初期楽曲のきちんとした意味のある歌詞を持つ曲の一部が、現在の電気グルーヴの足を引っ張っていたように私には感じられた。

 けれど不思議なことにその中に時折入る「電気グルーヴ」とか「DG!」と叫ぶ卓球の声は最高だった。卓球の声そのものはひどくよかった。

 また中期から後期の曲「フラッシュ・バックディスコ」、「Upside Down」、「Baby's on Fire」や「ママケーキ」「シャングリ・ラ」「モノノケダンス」のあたりは安定していて非常によかった。

  

 電気グルーヴの楽曲の強さは石野卓球またはその他のメンバーの作るトラックに対して、声も歌詞も楽器のように扱われているところにあると思う。

 一時期「電気グルーヴはテクノ」と呼ばれている時代があった。もしかしたらこれは今でもそう思っている人がいるのかもしれない。電気グルーヴのメンバーはこのイメージを喧伝してきた部分もある。が、それは20年も前の話になるし、彼らはその後のアルバム「A」のジャケットの帯にはジャンルとして「野球ディスコ」と記載した。これはもちろん野球ディスコという新たなるジャンルの確立のお知らせなどではなく「電気グルーヴはテクノじゃない」という宣言にほかならない。

 もちろんもともと「電気グルーヴはテクノ」じゃない。そんな時代は一回だってなかった。電気グルーヴは「電気で作るグルーヴ」でしかなく、そのグルーヴを作り出しているのは石野卓球の作るトラックと、その声そのものだった。

 初期の電気グルーヴはサンプリングを多用したトラックとその独特なバカな(今でもそれは変わりはしないけれど)歌詞からグルーヴを作り出していた。

 「VITAMIN」「DRAGON」期はそのグルーヴを生み出す力をテクノ/アシッドハウスに「も」借りた。

 以降の電気グルーヴは歌詞から生み出すグルーヴから、より直接的に声の生み出すグルーヴにシフトしたように思う。歌詞の意味はよくわからないけれど、私にとってなんだか気持ち良い曲というのは「フラッシュバックディスコ」あたりを筆頭にこの時期以降の楽曲に多い。トラックと融合した際に耳に気持ちのよい言葉を集めて歌詞を作っているという印象が、特にアルバム「A」以降非常に強く感じている。

 

 

 

 そろそろ当初の目的が忘れられつつあるが、この文章は電気グルーヴの新曲「Baby's on Fire」に対する感想文だ。 

 

 

 私は「Baby's on Fire」をひどく気にいった。

 電気グルーヴの現在において最高傑作ではないか?とまで書いた。何がそんなに気にいっているのか。

 実は理屈なんてまるでなくて耳に気持ちいい。そしてこれが重要な要素ではあるけれど、歌いやすい。鼻歌のように歌いやすい。暇な時には無駄に口ずさんでいる。

 

 もう相当何かが足りません たまりません 至りません

 Baby’s on Fire Baby’s on Fire では済みません

 

 全編を通して読むと意味があるのかないのか、何について歌われた歌詞なのか、まったくもって意味がわからないが、部分的には理解できるので口ずさんでみると、これが驚くほど歌いやすい。

 この曲を初めて聴いた時には懐かしくはあれど、そこまでよいとは感じなかった。けれどミニアルバムの発売日まで、youtubeなどの動画で繰り返し繰り返しこの曲のPVを見ているうちに気にいる曲となった。何かと口ずさむようになった。

 

 10月の終わりにReal Soundという音楽情報サイトにこんな記事が掲載された。

 

 これは私が思っていたことと非常にかぶる内容だ。そしてプロのライターさんが書いた内容だけあって大変わかりやすく整理されている。

 この記事で印象的な部分は井上陽水の書く詞を引き合いに出している点で、ここで取り上げられている曲は井上陽水が作詞提供したパフィーの「アジアの純真」。

 「アジアの純真」という曲の歌詞では全編に渡って井上陽水らしさが全開で、特にコーラスの部分では「北京 ベルリン ダブリン リベリア束になって 輪になってイラン アフガン 聴かせて バラライカ 」さらに「美人 アリラン ガムラン ラザニアマウスだって キーになって気分 イレブン アクセス 試そうか」と続き、語感を重視した独特の雰囲気が展開されている。

 「Baby's on fire」では電気グルーヴの二人の他にコーラスとしてねごとの蒼山幸子が参加している。彼女の歌うコーラスが「 ヤパーナ ハポネ ヤポンスコ イルボン リーベン ジャポネ イポーニャ イープン」といった歌詞というか日本を意味する外国語の羅列で、井上陽水の書いた「アジアの純真」のコーラス部分に非常に似た雰囲気を私は感じ取っている。

 

  現在の電気グルーヴ石野卓球の声がフィーチャーされた場合に、もっともそのグルーヴ感が高まっている。ただし残念なことに石野卓球はヴォーカリストとしては優れていない。少なくともトレーニングされていない。

 電気グルーヴは声すらも器楽的に利用していると書いたが、それはヴォーカリストとしての能力が高いこと、変幻自在であること、を意味しない。音域も狭く、一小節あたりの語数も限られている。けれど、グルーヴを生むことはできる。無駄をそぎ落として、この武器を最大限に利用した場合、現在のスタイルにならざる得ないのではないか、というのが私の感じた結論だ。

 トラックを制作し、可能な限り耳に気持ち良い言葉と、印象的なフレーズを作り、トラックと一体化させる。歌詞が楽曲を邪魔することは決してないし、むしろ相乗効果を呼び込んでいる。「Baby's on Fire」は私の勝手な思い込みだがそんな流れで作られている。

 

 ここまでの文章では私は驚くほど電気グルーヴのことも彼らの新曲「Baby's on Fire」のことも褒めていない。少なくとも読んでいる方には私の味わった感動はいっさい伝わっていないように思う。

 もし仮に、石野卓球のヴォーカルなしにこの楽曲を構成すれば、曲としての一体感をだすことは比較的に容易だったかもしれない。けれどそうしてしまえば電気グルーヴの最大の武器と私が考えている石野卓球の声を活かすことが出来ない。その魅力は大きく半減する。そしてそれはもちろん電気グルーヴとしての成功とは言い難い。けれどこの「Baby's on Fire」はそのせめぎあいにうまく折り合いをつけた結果だと思う。この曲の最大限の魅力は歌詞と楽曲と卓球の声とが一体化しているところにある。

 さらに、この曲はライヴでこそ最大級の魅力を露わにする。卓球の作ったトラックを卓球が無理なく、しかも自在に歌いこなす。石野卓球の声がそのまま自然な形で楽曲として存在している。電気グルーヴの最大の武器である卓球の歌声を最大限に出力できるフォーマットでありもっともストレートに出ている楽曲が「Baby's on Fire」なんだ、と私は感じた。そしてこのことに辿り着いたことに感動している。何より鼻歌として高性能であり高機能だと思う。

 ぜひ機会があればライヴで電気グルーヴの「Baby's on Fire」を体感してほしいと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 おまけ

 このブログに頻繁に出てくるグルーヴという正体のよくわからない言葉について「グルーヴってなんだよ。抽象的な言葉すぎて意味がわからん、それは本当に音楽の用語なのか!」とか切れる人がいるんですが、その怒りは理解出来るんですが、まあ、ざっくり「うねり」でいいんじゃないでしょうか。音がうねっていて気持ちよければそれがグルーヴの正体で良いと私は思っています。それ以上の複雑なもの、理屈、正しさを求めている人と話し合っても話は平行線のままだと思うので、お互いに近寄らずにいることが幸せにつながると感じております。以上。

 

 

  

 

 

 

 

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