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最近面白いと思った本とか小説 2014年10月版。

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  最近面白いと思った本とか小説のご紹介メモです。前回漫画版をおこなったのですが、せっかくなのでこちらもやっておきます。

 直接的に今回のメモを書きたいと思ったきっかけは1番最初にご紹介する「○○○○○○○○殺人事件」という小説、ジャンルで言えばミステリーを読んでからです。この私の熱い気持ちをホットな状態のまま伝えたい!と思ったんですが、せっかくなので他にも色々ご紹介および感想となっています。

 タイトルには「最近」と書かれていますが実のところ、そこまで最近の読書メモではないです。例えば村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」などは新刊の発売日に近い日に購入してその直後に一気に読んでいます。これは私の記憶が確かならJames Blake(ジェイムス・ブレイク)の2ndアルバムの発売と同時期だったと思いますので、つまりここ1-2年程度の読書メモというか感想メモという意味に思っていただければ幸いです。

 

 

それでは、はじめたいと思います。

 

○○○○○○○○殺人事件/早坂吝 

 

冒頭、作者の挑戦状から物語が始まる。

今回諸君らに取り組んでいただくのは、犯人当てでも、トリック当てでも、動機当てでもなく、タイトル当てである。

 作品のタイトルを当てる推理小説。これはひどく斬新だ。 

 ○で伏せられている文字は8つ。つまり八文字の言葉。そしてさらに書けば「ことわざ」がここには入る。

そして作者はさらに挑発的にこんな文章を続ける。

 何、タイトル当てになど興味がない?普通の推理小説が読みたい?

 安心したまえ。そういう人のために、本文は孤島や仮面の男、針と糸の密室が登場する

古式ゆかしき本格ミステリとなっている。殺人犯を論理的に導き出すことも可能だ。

 もっとも、そちらの方は難し過ぎて諸君らの手には負えないだろうが…。

 それでは、改めて---。

 健闘を祈る!

 この推理小説は早坂吝(はやさかやぶさか)のデビュー作にあたる。そして第50回メフィスト賞受賞作でもある。メフィスト賞と言えば森博嗣乾くるみ殊能将之西尾維新舞城王太郎などを世に送り出したざっくり言えば「面白ければなんでもあり」な賞。

 この記事の冒頭、このエントリを書くきっかけとなったのが「○○○○○○○○殺人事件」だと私は言った。それには理由がある。なぜならこの作品はこのブログ「vs. おすすめ」で取り上げるにふさわしいことこの上ない、ぴったりとした、ジャスト・フィットした内容だからだ。このブログで取り上げるべき内容だからだ。

 その気持ちを一言で言ってしまえば歴史的使命感。もうちょっときちんと説明するならば「どうしようもないくらいに面白いけれど、人には絶対におすすめするべきではない作品」

 面白いのならばもちろんおすすめすれば良い。内容については太鼓判を押す。けれど、そんなことをすれば私の人格は間違いなく疑われる。この苦悩にゆらぐ作品だ。問題作。

 

 文章力や表現力には稚拙な部分がある。けれど、それは細部でありそんな些細なことはどうだっていい。

 

 読んでいると下品な内容があふれていて、なおかつ何故こんなことをわざわざ書かなければいけないのか、ということまで記述されている。下品な思考。下品な視点。何故あの場面で語り手はあんなにも激怒したのか。何故孤島でなければいけないのか。ブログだけでこんな簡単に人が集まるのはご都合主義ではないか。仮面の男が簡単に受け入れられるのは不自然じゃないか。ところが解決編を迎えると、全てがひっくり返る。意味のない文章なんて書かれていなかったのだ。本当にうまくかぶっている。アレもコレもそれもすべて解決編に向けて綿密に状況を説明していただけなんだ。下品という仮面で本格推理小説であることを覆い隠している。作者は一つのゴールに向けて何もかもを犠牲にして丹念に道を創っていたにすぎない。 

 

 叙述トリックと最初に言ってしまうと、もうある種のネタバレになってしまう。が、言わずにはいられない。叙述トリックを使う作品とはもっと上品な内容で書かれているものかと思っていた。その常識をぶち壊すような展開。

 たったひとつの文ですべてがひっくり返り、もう一度読み返して確認がしたくなる。まさか☓☓☓だなんて。そんなことありなのか。(☓☓☓は3文字ではありません、念のため)

 

 ライトノベル風の表紙にライトノベル風の文体。表紙の赤毛の女性は実はこの物語の語り手でもなければ、ヒロインでもない。それどころか話の途中、主人公(語り手)からビッチ呼ばわりされている。なぜ、この女性が表紙なのかと疑問に思えて仕方がない。けれど、読み終えると、誰かを表紙にするならこの人物だろうな、と思えてくる不思議。

 

  冒頭の挑戦状には「古式ゆかしい本格ミステリ」の言葉があるが、どこがだよ、ギャグかよ、というツッコミをせずにはいられない内容。読後の感想もほぼ同様。

 けれど、ちょっと待ってほしい。これはやはり本格ミステリなんだ。

 この作品は「下品の仮面をかぶった本格ミステリ」で間違いない。

推理ゲームとして本当によく出来ている。最後の最後の行つまりオチまで丹念に書かれている。読者の気持ちを本当にうまく転がしながら展開している。作者は相当に人の心をつかむのが上手い。

 絶対におすすめはしないけれど、全力で傑作だと言える本格推理小説。 

 

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年/村上春樹 

 

 2013年に発売された村上春樹の新刊。村上春樹ファンにとってはどこか友人に宛てた手紙のように感じる作品ではないだろうか。

 冒頭で主人公の名前がいきなり登場するところは「国境の南、太陽の西」を思わせる。しかし物語のはじまりはどちらかと言えば「風の歌を聴け」に似ている。あるいはリアリティのなさは「海辺のカフカ」に近い感覚だ。

 けれど唐突に主人公の多崎つくるは名古屋出身と語られる。今までの村上春樹とは若干異なる趣きに少し戸惑う。さらにフェイスブックだのグーグルだの、ツイッターだのが登場する。過去の村上春樹の作品は基本的に昭和の時代の物語が多かった。それがどうだ。インターネット時代の村上春樹。あまりにも斬新な響きだ。もっとも主人公の多崎つくるはこういったSNSにうとく自分ではほとんど利用しない。

 過去の作品、「海辺のカフカ」の中でレディオヘッドの名前が登場した時にはひどく驚いた。村上春樹は昭和で止まっている作家で、マイケル・ジャクソン以降の音楽が作品で流れることはないと私は勝手に思っていた。

 

 ずっと昔から村上春樹の小説については、私にとってよくわからない評価がなされていた。それは村上春樹の小説がおしゃれという意見だ。本気かそれは。少し筋が悪くないか。私は村上春樹の小説におしゃれさの欠片も私は感じたことがない。けれど、今作を読んでいてこの辺りがそういった誤解を生む温床なのかなと感じた部分がある。それは会話部分。おそらくこれはある種の手法だとは思うけれど、片方が大雑把に細部を語って、もう片方がそのまとめをズドンという感じ。そのまとまり方が普通とちょっと違う自分という雰囲気を演出している。

 「早起きの鳥はたくさんの虫を捕まえることができる」これがもしもおしゃれというならリチャード・バックの「かもめのジョナサン」もおしゃれな小説の範疇にはいるんだろうな。そんなわけあるか。

 

 ラストのチャプターで突如として物語は現実に引き戻される。織田信長歴史小説を読んでいると、本能寺で奮戦する信長の物語が、不意に、最終章で突如として何故か現代に戻り、高層ビルを腕組みして見下ろす信長の像とともに今の世界は戦国時代と地続きであることが語られるナレーションが入るようなあの感覚。

 実はこの小説を村上春樹の過去の小説を引き合いにだして語るのはフェアではない。確かに過去の村上春樹のパロディ的な部分はある。けれどそれはあくまでもギャグのようなもので本質ではない。そんな風に私は感じた。

 

 ※ごめんなさい。何ひとつとしてまともなことを語っていないので、いつか作品の内容についてもっとまともな感じで取り上げます。 

 

ここは退屈迎えに来て/山内マリコ

 

 8つの物語から構成される短篇集。

  ほぼすべての話に椎名という共通する人物が登場するものの、それぞれの話は独立していて関連性はない。

 日本にはわかりやすい都会と地方という対立の構図なんて存在しない。あるのは本当に一握りの中心地と国道沿いの郊外の街だけ。この短篇集はその国道沿いの街に住む女性たちの話。

 

 マイルドヤンキーという言葉が最近バズ・ワードとなった。実はこのマイルドヤンキーという言葉の定義を聞いて私が一番最初に思い浮かべたのはイギリスのワーキングクラス(労働者階級)だった。もっと直接的に言えばOasis(オアシス)のギャラガー兄弟だった。ギャラガー兄弟の発言とマイルドヤンキーと定義されている人々のメンテリティにものすごく相通じるものを感じていた。

 私がUKロックを好きになった当時英国を席巻していたのがオアシスだった。彼らは本国ではミドルクラス(中産者階級)出身のBlur(ブラー)と激しくやりあっていたが、日本ではブラーとオアシスはともに中産階級に愛された。少なくとも私にはそのように見えた。もっと言えば当時の日本にはワーキング・クラスに該当するような立場はあまり存在していなかった。いや、もちろん存在はしたが若い非正規雇用者たちは周りからは自由を愛する人くらいに理解されていた。そういった意味での英国的な若き労働者階級というものは顕在化していなかった。

 私の知る限り当時のオアシスファンはギャラガー兄弟的なものをどこか他人ごととして理解していた。決してリアリティあふれる何かではなかったように思う。

 

 オアシスのリアム・ギャラガーの歌唱法はパンク以降のそれにあたる。パンクがなければあのリアム・ギャラガーの歌い方は存在しない。

 

 オリジナル・パンクとして人気があったClash(クラッシュ)のジョー・ストラマーは「ロンドンは退屈で燃えている」と労働者階級の気持ちをアジテートした。そんな彼だったが、自身が中産階級出身であることに対して苦悩した。英国では中産者階級のアーティストはいつも苦悩する。

 

 気がつけばオアシスのデビューから20年。不思議なことに日本ではオアシス的なものを理解しやすい土壌がいつの間にか出来上がっていた。そしてジョー・ストラマーの言った「退屈」の正体も理解出来るようになっていた。

 

 国道をどこまでも、どこまでも進んでも同じ風景。同じチェーン店。市が変わればまた同じ風景の繰り返し。国道沿いには同じ退屈がずっとずっと転がっている。どこまで進んでも。

 

 ※こちらの物語もやはりごめんなさい。UKロックの話しかしていないので機会があれば改めてまともな感じで取り上げたいと思います。この作品は間違いなく時代を切り取った名作だと思います。ところでこの物語を私は文庫本で購入したんですが、文庫版の解説をはてな村精神科医シロクマ先生(能代亨)が書いていて興味深いです。

 

プレイヤー・ピアノ/カート・ヴォネガット・ジュニア

 

 初期のカート・ヴォネガット・ジュニア

 ひどくカート・ヴォネガット的な小説ではあるけれど、例えば「猫のゆりかご」や「スローターハウス5」あたりのヴォネガット節を期待して読むと少し違うと感じるかもしれない。けれど根っこの部分は一緒だ。

 

 プレイヤー・ピアノとはピアノの自動演奏機。人の手を借りずともピアノを自動演奏する。どんどん生産手段の効率化が進み、管理者や技術者が不要となっていく世界と出生の物語を書いている。

 

 ある種のディストピア小説。しかしそれは「一九八四年」のような無慈悲で、国家権力に支配されてはいるがある種の浮世離れした感じとは異なり、人生の悲哀、職を失う労働者の悲哀みたいなものを多分に含んでいる。パンチカードというような今では使われない技術も出てきて、その部分ではリアリティがあるということとは違うが、寓話的に受け止める事ができる。そして決断を迫られる様は、より現実的な物語。

 

 

 ネット上に出回っている書評やレビューなどでは評判の悪い部分もあるが、私個人としてはヴォネガットの最高傑作と感じている。少なくともディストピア小説としては歴史的傑作。

 エンジニア(技術者)とマネージャー(管理者)は環境が変わっていく中で自分の人生をどう考えるのか?という問題提起をしている内容で、それをディストピア小説として書き「一九八四年」のような現実感のなさとは異なり、これは昨日書かれたものではないのか?という先見性で押し切っている。おそらくはヴォネガットに先見性があったというよりは人として普遍的なテーマだから、そう思えるだけということなんだろう。

 とにかく「プレイヤー・ピアノ」ではヴォネガットらしさの片鱗も見ることもできるし、自己啓発的なビジネス書を一冊余計に読むならその時間をこちらの読書に当てたほうがはるかに有益。いや、そんなことを言ったら人生を効率で語るなとヴォネガットに怒られてしまうだろうね。

 

 

 ※もし仮にこの文章がジョージ・オーウェルの「一九八四年」について否定的に書いていると思われたとしたならそれは誤解です。「一九八四年」と「プレイヤー・ピアノ」ではディストピアの書かれ方が違うということが伝えたかっただけです。「一九八四年」のテーマはは2014年においては今日的(こんにちてき)とは言い難いように感じています。

 

ハローサマー、グッドバイ/マイクル・コーニイ

 

 施川ユウキの「バーナード嬢曰く。」の中でも取り上げられていた作品。この作品は作者が冒頭で語る通り、間違いなくSF小説であり、恋愛小説であり、戦争小説であり、さらにもっとほかの多くのものである。

 「さらにもっとほかの多くのもの」ってなんだ?と思われるかもしれないが、それはおそらく読んでいただければわかる。小説の内容紹介に「読んでいただければわかる」なんて言葉は本末転倒も甚だしいが、あらすじだけを読んで楽しむような物語ではない。そしてそれは今回紹介するすべての本に共通する部分だ。いや、そもそも読書なんてそんなもんだ。

 

 「ハローサマー、グッドバイ」は1987年にサンリオSF文庫が廃刊になって以降、ずっと復刊されずにいた。それが約20年後の2008年に河出文庫より復刊。新訳にて長い眠りより目を覚すこととなる。

 

 最後に大どんでん返しがあるとか、オチが凄いとか、いろいろ言われているがそういった種類の物語ではない。最後に唐突に自由の女神を発見したりするわけでもなければ、主人公が実は非ヒューマノイド型の生物、例えば作中に出てくるロリン(非ヒューマノイド型で毛むくじゃらの生き物、恐怖に陥っている人を眠らせる能力を持つ)だった、というようには展開しない。

 ざっくりあらすじを書くと、主人公ドローヴは夏休暇のために両親に連れられて港町パラークシを訪れた、そこで宿屋の少女ブラウンアイズと出会い、恋に落ちる。けれど大人たちの事情により主人公は彼女と引き離されてしまう。ドローヴはブラウンアイズと再開出来るのだろうか。

 

 表紙にのっている可愛らしい女の子がヒロインのブラウンアイズ。一言で言ってしまえばパーフェクト・ヒロイン。途中から、あれ?こんな娘だったっけ?なんか積極的になったぞ?と疑問に思うことこの上ないが、そこも含めて素晴らしい。

 主人公は若い。10代。若いというよりは幼いと言うべきか。若さゆえか主人公とブラウンアイズはあっという間にバカップルとなる。そこも含めて、いやむしろだからこそ青春恋愛小説として素晴らしい。けれどこの物語をさらに盛り上げるのはリボンの存在。ツンデレムーミンで言えばミィ。この物語を読んだ方の多くはおそらく「ハローサマー、グッドバイはなんといってもリボンだよねー」と言い出す。それくらいに彼女は存在感がある。

 

 主人公とブラウンアイズの恋愛物語が進行する傍ら、大人たちの事情、SF的な大仕掛けも進行していく。失われていく2度と戻らない思春期の、かけがえのない夏を描く物語としてひどく秀逸。同時に主人公たちの年代設定も秀逸。

 また物語では階級社会を取り上げている側面もある。イギリス生まれということもあり自分より上の階級を「やつら」と表現するのはそれっぽい。

 とにかくそういったものも、すべて飲み込んだままラストシーンへとなだれ込んでいく。その勢いと決着の付け方において、青春小説として傑作。

 

 

 

グレート・ギャツビー/F.スコット・フィッツジェラルド(訳・小川高義

 

 「グレート・ギャツビー」と言えば村上春樹の「ノルウェイの森」。

 「ノルウェイの森」の中で主人公がこの本を読んでいただけで、東大法学部のエリート永沢さんに一目置かれたという凄い小説。

 何度か映画化されており、その際にギャツビーを演じたのはレオナルド・ディカプリオロバート・レッドフォード

 アメリカ人に大変愛されている物語とも言われている。

 

 実はこの物語を読むまで私はアメリカはアメリカン・ドリームの国であり、挑戦者に寛容で新興の挑戦者を認めるような雰囲気が既存の金持ち階級にもあると誤解していた。だが、この物語の中ではそんなことはいっさいなく「西」は「東」についていつもコンプレックスがあった。「東」は「西」を文化度の低い田舎者、成金と軽く見ている。

 「西」とはアメリカのことであり、ギャツビーの生まれたノースダコタ(正確にはアメリカの中西部にあたる、この物語では西海岸の事をさしてはいない)、ギャツビーの住むウェストエッグのことだ。

 「東」はヨーロッパのことであり、ニューヨークやワシントンなど東海岸であり、ギャツビーの昔の彼女の住むイーストエッグのことである。

 

 ギャツビーは生まれながらの富豪のふりをする。ウェストエッグに住む彼は毎週末に豪華なパーティを開く。なぜかといえば、入り江の向こう側、イーストエッグに住む昔の彼女ディジーにその様子を見せつけ、自分の方に彼女を振り向かせるため。

 

 この物語を最後まで読んでも実は、ギャツビーのどこがグレートなのか、何が偉大なのか、どういう風に華麗なのかは理解しにくい。そして何故アメリカ人に愛される物語なのかもわからない。

 けれど、おそらくはこういうことじゃないか、と私は考えた。この物語が書かれたのは1920年であり、この時代にはすでにアメリカン・ドリームもアメリカ的な挑戦者魂も失われつつあったのだと思う。「グレート・ギャツビー」の中でやや傍観者的な立場の語り手以外はほぼロクでもない人物で構成されているこの物語において、ギャツビーだけが、ギャツビーこそが唯一アメリカ人が失ってしまった熱い気持ちを持ち続けている人物として書かれている。ギャツビーは古きよきアメリカの象徴として書かれており、その失われてしまった時代に思いをはせるアメリカ人に支持され続けているのではないだろうか、と。

 

  この物語は三人の訳者により訳されており、訳として一番メジャーなものが野崎孝訳、ノーベル文学賞を取るのではないかと言われている文学者・村上春樹訳などがあるが、個人的には今回読んだ小川高義訳が個人的に一番好ましい訳と思っている。文章が美しい。

 

反逆 上/遠藤周作

 

 遠藤周作の書いた歴史小説。今回は上巻だけの感想。上巻の主人公は荒木村重。ちょど今年放送されたNHK大河ドラマ軍師官兵衛」で黒田官兵衛を長きにわたり投獄した人物としても有名。

 

 遠藤周作と言えば私の世代では竹中直人遠藤周作のものまねをしていたことと、キリスト教と結びつきが深い作家である、という印象くらいしかない。その遠藤周作歴史小説を書いている、ということに実は意外な感じがした。物語上はキリシタン大名高山右近なども登場し、比較的良い印象で書かれていて、そのあたりも興味深い。

 

 この小説を読みたいと思った直接的なきっかけは、荒木村重という人物に興味があったから。なので今回の感想はとりあえず上巻だけ。

 なぜ荒木村重なのか。

 山田芳裕の漫画「へうげもの」を読んでいた時のこと。「へうげもの」は戦国時代を扱った漫画で主人公はゲヒ殿こと古田織部。「へうげもの」の中の古田織部は戦国武将ながら物欲にまみれた人物として描かれており、戦国武将としてはかなり癖のある描写が多い。その古田織部インパクトで上回る人物がこの漫画の中に登場する。それが荒木村重織田信長に反乱を起こしながら敗れ、茶器だけをもってその他すべてを捨てて逃走し生き延びた。利休十哲の一人でもあり、名前を荒木道糞(あらきどうふん)と改めるなどとにかくアナーキーな人物として描かれていた。

 この荒木村重について書かれた小説がとにかく読みたかった。

 

  「反逆」の中での荒木村重は決してアナーキーな人物ではない。むしろ常識人といっていい。若き妻のだしを愛し、部下を思う人物として書かれている。むしろアナーキーで自分勝手な人物であったなら、この物語のように苦悩なんてしなっかただろうか。

 

 織田信長が強すぎる苛烈な個性として書かれている。これは現代の圧倒的に輝く強いリーダーシップを持つ企業家のようでもある。荒木村重高山右近明智光秀はその強烈なリーダーシップの企業における社員の比喩とも受け取れる物語。

 

 

イニシエーション・ラブ/乾くるみ

 

 青春恋愛小説。物語は昭和。昭和の大学生や専門学校生、若い社会人などがおこないそうなデートが描かれていて、その面から見ても面白い。

 物語はサイドAとサイドBに分かれていて、サイドAとサイドBでは時間が若干飛ぶ。

 

 読み進めていくと、2014年から昭和の大学生にタイムスリップする。

 おっさんの世代なのでこの物語に登場するテレビ番組や芸能人、歌手、パソコン、社会的現象、若者文化など実によくわかる。けれど、これは今の若い世代には、特に10代や20代前半の人にはわかりにくい内容なんだろうな、とも思う。すると、この小説はあれかおっさんが昔を懐かしんで読む、青春回顧小説か。

 そう、基本的にはこの物語は昭和の時代を少しでも生きた人が読むべき青春小説。

 

 ところで裏表紙に書いてあるあらすじ紹介は「最後から2行目で本書は全く違った物語に変貌する」。こちらは残念ながら、最後の2行で結末をつけたいがためか、わかりにくい。その部分での伏線の貼り方はあまりうまくないと思った。

 ただ2回読みたくなる物語というのは本当にその通りで、行動にきちんと意味があって読んでいて楽しい。 

 

六人いた! 写楽 ~歌麿と蔦屋がプロデュースした浮世絵軍団/橋本直

 

 写楽はミステリー小説のように取り扱われる題材だ。誰もが謎に挑戦せずにはいられない。

 

 江戸時代の浮世絵師・東洲斎写楽の活動期間はわずか10ヶ月。この間に140点余の作品だけを残し忽然と消えた。

 こんなに短い期間にたくさんの名作を生み出した写楽が、突然消え失せるなどおかしい。それはつまり写楽写楽ではないということではないか?本当の写楽はどこかに別人としていたはずだ。そういったスタンスで書かれた本がたくさん出ている。そして今回紹介するこちらも写楽の正体を探る写楽本。

 

 写楽のすべての作品は蔦屋重三郎の「蔦屋」が版元となり世に出ている。写楽の仕掛け人が蔦屋重三郎であることには何の疑いもない。その前提は崩れない。

 ところがこちらの写楽本では、写楽は6人いた。しかもそのうちの一人は蔦屋重三郎本人、また従来言われている能役者の斎藤十郎兵衛、東海道中膝栗毛の著者・十返舎一九、に加え女性絵師だのかなり多士済々でバラエティに富んでいる。既存の写楽本よりはライトな雰囲気で読めるので私のような写楽の初心者にはちょうどよい。

 

ピカソは本当に偉いのか? /西岡文彦

 

 ピカソという画家についてどんなイメージをお持ちだろうか。

 若き天才画家をイメージさせる「青の時代」や「バラ色の時代」だろうか。それとも圧倒的なわからなさのキュビスムシュルレアリスムの時代だろうか。圧倒的な迫力で描かれたゲルニカそのものだろうか。それとも絵画そのものではなく印象的な女性関係についてだろうか。

 ともかく、おそらくはエキセントリックな一般人には理解不能な天才画家という受け止められ方をしてはいないだろうか。

 

 この本では絵画の歴史についてもふれられている。それはつまり絵画は誰によって評価されてきたのか、誰を魅了してきたのか、誰のための絵なのかという歴史でもある。そしてそれはピカソの時代に急激に転換される。

 

 実はこの本を読んで知ったことがある。それはピカソは人の心を掴むのに長けていた。いや、相手の考えていることを操作することがうまかったというべきか。ピカソが活躍しはじめた時代は、画商が力を握っている時代だった。ピカソには何より画商の心を掴む才能があった。画商を操る才能があった。

 

 ピカソは他者をいっさい無視した天才であり、唯我独尊の境地で絵の受け手の心情など一切無視して絵だけを描いていたという私なりの思い込みあった。自分の中にあるものを芸術として吐き出さずにはいられないだけ。他者の理解など必要ない。けれどこの「ピカソは本当に偉いのか?」を読むとそれが誤解だったと感じる。もちろんピカソは天才ではあったけれど、自分の中にあるものを吐き出さずにいられないというのは間違いではないかもしれないが、彼の持つもっとも優れた才能は、実は時代の空気を掴む部分だった。

 

 急成長する画商をビジネスとして考えた時にはピカソの嗅覚の鋭さには目を見張る物がある。そしてそのカリスマ性には驚くべきものがある。この本は現代芸術の本でもあり、芸術にも見るべき対象者がいるという事を改めて考えさせられる内容。 

 

銃・病原菌・鉄/ジャレド・ダイアモンド

 
 

 本書はニューギニアの政治家ヤリの疑問からはじまる。

「あなたがた白人は、たくさんのものを発達させてニューギニアに持ち込んだが、私たちニューギニア人には自分たちのものと言えるものがほとんどない、それはなぜだろうか?」

 西欧の人々が何故歴史の覇者となったのか?人類に格差ができたのは何故なのか?何故白人が富と権力を独占できたのか?などを鳥類学者の作者が世界中を駆けずり回り推理小説のように解明していく物語。

 上下巻にわかれてはいるものの基本的には早々に解明された謎を何度も繰り返し補強していく感じの展開となっている。

 

 本書では私が疑問に思っていたことがバカバカしいことから、本質的なことまでかなり多くのことが解決されている。

 家畜となった動物と、そうでない動物の違いはなんなのか。

 馬は飼われて、シマウマはそうならなかったのは何故か。アフリカ人が飼育を思いつかなかったからなのか?実はそうではない。シマウマも馬と同様何度も何度も、飼育に挑戦されたが、シマウマの性質上、人に飼われることに向かなかった。それどころか、ほとんどすべての動物は古代の時点で飼育に挑戦されていたらしい。けれど、現在まで家畜になっていない動物たちはほぼ飼育に失敗している。飼育には向かない理由がそれぞれにおいてあったらしい。

 時折、時代を変えるような天才が生まれる。彼らが生まれなければ本当に歴史は変わらなかったのか。

 これは本書を読んでの私自身の推測となってしまう話だが、古代において革命的な発見というのは、同様の発見が地理的に遠い東西でそれぞれ発生していた。これがつながるということが少なからず起きていたようだ。つまり、天才の発生はある種歴史的必然であり、要は早い遅いだけの問題。

 その他多数の私の長年の疑問が解決されている。

 例えば農耕民族と狩猟民族どちらが優れているのか。

 伝染病はどこからやってきたのか。

 伝染病については薄々そうではないかと思ってはいたけれどある種衝撃の理由が書かれている。  

 

 この本は色々なブログやランキング、書評、レビューなどに取り上げられることが多い。上下巻と長い構成となってはいるが、やはり多くの人に取り上げられるだけあって興味深い内容が多岐な方向から語られている。

 

 さて、冒頭のニューギニアの政治家のヤリの疑問には「銃・病原菌・鉄」では地理的な問題として回答が提示されている。決して人種的な問題ではない。ただしこれは、もし仮に歴史が何度繰り返してもやはり東西に長いユーラシア大陸から勝者が生まれることは必然となる要素であることも。

 

まとめ

 今日はここまで。漫画と同様に、本および小説の方も気が向いたら続きを書きます。

 特に冒頭でご紹介した「○○○○○○○○殺人事件」や「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は到底他の人にはおすすめはしないけれど、面白く感じたという作品でこの「vs. おすすめ」というブログで取り扱うにはぴったりの内容と感じました。なのでそういった部類の本を探し当てることができたらよいな、感じております。

 ところで「ハローサマー、グッドバイ」には続編が出ていて、タイトルは「パラークシの記憶」。こちらも楽しそうなので、そちらの話もいずれまたどこかで。 

 

 

 

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