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弱いつながり 検索ワードを探す旅/東浩紀

東浩紀検索エンジン

 検索エンジンで検索することは普通のこととなった。これはこの四半世紀での人類の劇的な変化の一つだ。けれど、不思議なことに検索エンジンクリエイティヴを我々に与えてはくれない。

 そこで批評家の東浩紀は旅に出た。検索キーワードは自ら作り出すものであると。

 

 本書は短く読みやすい本。おそらくはアッという間に読める。けれどこの本から感じ取れること読み取れることは読み手によって違うように思う。

 

 この書の帯には「グーグルが予測できない言葉を手にいれよ!」と書かれている。

 

「弱いつながり 検索ワードを探す旅」は東浩紀が各地を訪れ、その地域であらたなる検索ワードを手に入れる話だ。それが各章ごとに書かれている。

 

 ネットの世界では自分の意思で自由に言葉を検索しているつもりであったとしても、固定化された思考パターンによって毎日似たような言葉を繰り返し同じ思考で検索している。一方でグーグルは今なお進化している。グーグルはお得意のビッグ・データという強力な武器を持っている。彼らは近い将来、私たちの固定化された毎日の様子から先回りして次に検索するであろうキーワードをズバリ言い当てるだろう。そう、ルーティーンワーク化した日常では気の利いたノイズの入った本来の自分とはかけ離れた検索キーワードなんて出てきやしないんだ。私たちは自分の狭い枠の中から限られた言葉だけを選択してグーグル検索をしているんだ。

 もちろん私たちの生活にだってノイズが入らないわけではない、例えばネットに限定してしまえばそれは誰かのブログであったりまとめサイトであったり、または何かのランキングかもしれない、もしくはFacebookフェイスブック)やTwitterツイッター)、mixi(ミクシィ)などのSNS、それとも2ch(にちゃんねる)みたいな巨大掲示板、あるいは今日起きたことのニュース。けれど、それもやはり固定化された毎日のお決まりのネットの中に表示されている言葉。そのブログもランキングもまとめサイトSNS巨大掲示板も結局はいつも巡回しているネットの限定されているルートそのものじゃないんだろうか。あなたはTwitterのタイムライン上にあなたが興味をしめさないようなジャンルについてだけつぶやくような人をのせておきたいと思うだろうか。ある日突然、昨日まで興味のなかったトロピカル板やベジタリアン板をのぞきたいと思うだろうか。自分に興味のないジャンルのニュースは本当に目にとまっているんだろうか。文字として認識されているんだろうか。つまり、まったくの未知の領域から唐突に検索キーワードが頭のなかに降ってわいてくることはそう滅多にない。

 いや別に検索キーワードはネットの中だけにとどまる必要はない。リアルだってかまわない。知人との会話、街で見かけた看板、昨日見たテレビ番組、雑誌、週刊誌、会議での話題、書店で立ち読みした誰かのエッセイ集。けれどそれはすべてやはりあなたのルーティーンな日常の一部ではないだろうか。いつもと同じ帰り道、いつもと同じコンビニ、いつもと同じ仕事仲間、いつもと同じ雑誌、いつもと同じテレビ番組、いつもと同じ作家、いつもと同じレシピ。やはり検索キーワードは固定化されていないだろうか。調べる内容は結局いつだって限られた範囲内から得られたキーワードばかり。

 

 グーグルが予測したあなたの検索キーワードを裏切るには、自分の日常にいつもと異なったノイズを与えることだ、東浩紀はそしてそのノイズを旅(正しくは観光)によって得るのだ、と本書を書いた。

 

 今回のエントリは書籍紹介のふりをしつつかなり長めの内容。場所によっては本の内容をそのまままとめたり、逆に私の自分の考えた内容が入ってきたりと統一感がない。普通の人ならもっとうまくまとめてるよ、と言われても仕方がない。反論のしようがない。けれど、短くまとめてしまってはそれは私が感じ取ったこととは違う。散漫なこの感じこそが、私がこの本から感じ取ったこと。なのでごっそりと長めの文章となっている。ご容赦を。そして全部読め。「要するに」とか分かりやすいまとめなんてない。

 

強いネットと弱いリアル

  この書の冒頭ではいきなり自己啓発本のように、人は放おっておくと自分を固定し、そこから逃げ出せなく生き物だ。だから「自分」を変えるには「環境」を変えるしかない、と東浩紀と言い出す。

 その具体例として東京大学へ行きたいなら、もっとも重要で効果が高いやり方は東大合格者数の多い学校へ通うことだと東浩紀は言う。例としてはひどく退屈だがこれは正しい。理由を言い出せばいくつでもあるけれど孟母三遷の頃から変わらない真理というやつだ。人間てやつは結局わかりやすいロールモデルがいてそれを真似するだけの存在がほとんどなんだ。人は基本的に真似をしたがるんだ。正しい思考、正しい言葉、正しい行動。すべて残らずもってけよってことだ。自分で何かを生み出せる人間なんて一握り。

  

 ネットは「強い絆」を構築するには優れた存在だけれども、人生を豊かにするのは、自分を人生をかけがえのないものにするにはリアルによって構築される「弱い絆」。

 

 この「弱いつながり 検索ワードを探す旅」ではネットは強い絆をさらに強くするメディアだと書かれている。それはノイズを次々排除すること。ネットではSNSでは面倒だと思った瞬間にブロックすればいい。ミュートすればいい。マイミクを切ればいい。彼らをノイズとして排除するのは致命的な炎上でもしない限り一瞬だ。けれど、それがリアルなパーティだったらどうだろう、たまたま隣あった人ととも面倒だと思いながら話をしているうちに誰かを紹介される。そんなものが、そんなノイズこそが「弱い絆」つまりは偶然の出会いだ。

 

台湾/インド

 この章では東浩紀が台湾とインドに行った際のエピソードが書いてある。

 ※この項目はわりと「弱いつながり 検索ワードを探す旅」に書かれていたエピソードをそのまま丸々まとめて書いてあります。それはこのエントリで書きたい内容とかなり関わる部分なのでそうしています。

 

まずは台湾。

 一般的に台湾の若い世代には「日本のサブカルチャー/ポップカルチャー的な文化が好まれている」と言われている。ところが東浩紀が台湾に実際に訪れてみるとそんな単純な話ではなく、台湾人にはもともと台湾に住んでいた台湾人(本省人)と一九四五年に蒋介石とともに大陸から渡ってきた外省人の区別があり、日本のサブカルチャー好きなのは台湾人(本省人)の子弟の話であり、外省人はむしろ日本人を好んでいない、とのこと。

 確かにこの話はある種有名のようで(少なくとも台湾人に本省人外省人がいることは有名)、ネットで調べれば簡単に出てくる種類の内容とのこと。もちろん台湾に住んだことがある人ならば当然知っているようなことかもしれない。けれどそれは台湾とつながりの弱い自分にとっては意図的に調べなければわからかったこと。つまりは実際に行ってみなければわからなかったし、知る機会もなかった。

 ところで台湾人が日本のサブカルチャー好きとのことだがいったい何が人気なんだろうか。ゲームかアニメかフィギュアかそれともバンドかはたまたAKBかジャニーズなのか。どういった経緯でそういったものに興味を抱くんだろうか。

 

次にインド。

 今でも日本ではインドという国へ旅行することに特別なイメージがある。そこはバックパッカーの聖地でもありアナーキーな旅でなければインド旅行にあらずみたいな固定観念もあるようで、たとえば「地球の歩き方」のインド編はページをめくるといきなり「インドに行くならホテルの予約はするな」と親切にインドらしい旅の満喫方法を指導してくれる。

 インドに入国するためには事前にビザが必要だが、東浩紀の頭のからインド出発の2日前までビザのことが綺麗に消去されていた。「インド ビザ」などの検索ワードで調べてみたところ、ビザは絶対に必要とある。

 何かにすがる気持ちでさらに追加で調べてみるとアライバルビザというものがあることを知る。ところが「インド アライバルビザ」で検索をかけてみても、ほとんどヒットせず情報が少ない。いやヒットしないわけではないが数少ないヒットする内容のほとんどがバックパッカーのブログばかり。その日記などを読むとアライバルビザの取得は難しいと書かれている。長い時間がかかりやっとアライバルビザが取得できたのは翌日の午前5時などと書かれている。

 実際に東浩紀がインドに訪れた際にはアライバルビザは一瞬でとれたそうだ。何故バックパッカーの日記と違うことが発生したのか。「地球の歩き方」のような書籍に影響されて泊まるホテルも決めていないようなバックパッカーたちへはアライバルビザの審査/取得には時間がかかり、それは彼らにとってある種のイベントとなりそのことについてブログへ色々と書き連ねたが、一般的に小奇麗な格好をして良いホテルに泊まるような旅行者へはアライバルビザの取得はおそらくあっさりとでき、彼らはそのことに時間がかかるとは思いもしなかったので、どこかでネット上の文字にする機会がなかった。 

 ネット上の情報はブログを書く人の行動によって無意識のうちにフィルタリングされていたということ。アライバルビザはバックパッカーに厳しく、良いホテルに泊まるような旅行者には優しかった。

 

さらにインド。ケーララ州。

 東浩紀はインドで自分探しをすることもなく、雑踏にまみれることもなく、デリー、アーグラー、ジャイプル世界遺産の多い三都市をめぐる。その中で彼はインターネット三昧の日々を過ごす。インドについて色々調べていくうちに南部にあるケーララ州という場所があることをを知る。

 ケーララという地域は識字率も高く、乳幼児死亡率も低く、インドの中では先進的な地域でIT推進地帯でもある。アラビア海に面したビーチリゾートでもあって観光業も強い。人口は3000万人くらい。共産党がしばしば政権を取る。特殊な岩盤があるらしく自然放射線量が高く、一部では双子の出生率が有意に高い。

 今文章にしたケーララについてのすべての情報は日本語でグーグル検索すればすべて見つかる情報。そう、すべては公開されている情報。けれど、ケーララの情報サイトにたどり着くためにはグーグルの検索窓に「ケーララ」と打ち込まなければいけない。では何故、東浩紀はケーララという言葉にたどり着くことができたのか。それはインドに行ったから。

 ネットの中には多くの情報があふれていて検索窓に検索ワードを叩き込めばアッという間に情報は見つかる。けれど、その検索ワードを私たちは持っていない。東浩紀にとってはケーララという言葉に行き着くまでにはリアルなインド旅行が必要だった。

 

 この3つのエピソードはインターネットのある種の特性を伝えている。

 

 ネットでは見たいものしか見ることができない

 

 台湾やインドのケーララ州についての情報はきちんと検索すればネット上にたくさんの事柄が掲載されていた。しかし、そこにたどり着く検索ワードを持っていなかった。

 

 インドのアライバルビザは旅行者の行動様式によりネット上の情報がフィルタリングされたバイアスのかかった情報しか見つけることができなかった。その理由はインド旅行者は自分の書きたいと思ったことしかネット上に記事を残さないから。バックパッカーバックパッカーの見るインドしか報告しない。バックパッカーは自分の書きたいインドしかインターネット上に書かない。

 

 また「弱いつながり 検索ワードを探す旅」には有名人のSNSでの特異な行動が書かれている。SNSは基本無料だからお金のない若者が集まってくる。有名人はそんな「お金のない若者」の共感を呼ばねばならない。人気を取らなければいけない。ゆえに彼らはある種の情報を隠すようになる。安いチープな食事、牛丼やファーストフード、コンビニの話はするけれど、高級ホテルに泊まった話や高級料理店で食事をしたなどとツイートしたりしない。有名人の伝えたいことは「僕らもみんなとおなじくらいにチープで退屈な毎日を暮らしているんだ」ということ。でもそれは全部ウソなんだ。有名人は自分の情報をフィルタリングしているんだ。有名人は自分の見せたい姿しかネット上では見せない。

 

 私がこの書を手にとった理由をここで書きたい。私は自分自身の語彙の足りなさ、ボキャブラリーの足りなさ、に興味を持っている。いつもブログなどの文章を書くとそのことがひどく気にかかる。繰り返し同じ単語を使ってしまう、同じ表現を使ってしまう、自分自身の根本的な欠陥についてだ。もちろん問題はそれだけではない。基本的な国語力がなっていないとか、文章を書くことそのものが下手だとか、構成がダメだとか、言葉選びのセンスが悪いとか、言いたいことが伝わっていないとか、そもそも言いたいことなんてあるのかとか、色々まずいところがある。けれど、そのあたりは自分のことながら許せる。あきらめることができる。本質的な頭の良さが自分にはないのだから仕方がないじゃないか、と。けれど語彙力が足りないのは仕方ないということとは違うだろうと思っている。

 語彙が少ない原因はそれだけではないにせよ、私の固定化されたルーティーン化した毎日に関係しているように感じている。

 本書で東浩紀は新たな検索ワードを探すために若者に旅に出よ!とアジテーションする。自分探しなんていう退屈なもののために旅なんてする必要がない、より深くネットに潜るためにリアルな旅が必要なんだ、と。

 私が気にしているのは自分の語彙力だけれども、それは検索ワードの貧弱さとも共通している。自分が普段グーグルを使って検索する内容の薄っぺらさといったら。そんなことではネットに深く、深く潜ることなど出来やしない。そう私はリアルを充実させることなんて実は望んでいない、このネットの中でもっと知ることができる事があるはずだと、まだまだ感じている。本書はそんな私の些細な問題を解決してくれる手助けになるかもしれないと思ったからだ。

 

福島

 この章ではFukushima(福島)を軸に2つのことが語られている。それは「観光」と「外国語」。

 

まずは「観光」。

 東浩紀原発事故を未来に伝えるために「福島」を「観光地化せよ」と主張している。いや主張するだけにとどまらず若い著名人、南相馬市の市議会議員、現地の医師や経営者らと意見交換をし計画を練っている。

 この書のテーマは「旅」である。けれどその旅はどちらかと言えば無責任で軽薄な「観光」の方をメインに取り扱っている。「旅人」という重い響きではなく、軽く薄ぺっらい「観光客」になれと、東浩紀は言う。

 どうして「福島」を「観光」なのか。福島の問題は深刻で重大。この問題に真面目にコミットしろと言われれば普通の人はみな腰が引けて逃げ出してしまう。被災地からも足が遠のく。その結果忘れられてしまう。もっとも考えうる最悪でありがちな結果だ。そんことになるくらいならば「軽薄」で「無責任」な「観光客」に被災地を見てもらい、事故の跡地を見てもらい、少しでも事故について考えてもらったほうがはるかにマシではないか。というところから東浩紀の考えは始まっている。

 東浩紀は25年後のことを考えている。おそらくその時には福島の記憶は風化している。もし25年後福島を観光地化することが出来たなら、観光客が福島に来て、何かを見て、何かを感じて、それまでに一度も検索しなかった「原子力」や「放射能」を検索したならば、この計画は、福島第一原発観光地化計画は成功なんだ、と。

 

次に「外国語」。

 検索をしていると日本語検索の限界にぶちあたることがある。その文章はその情報はどこかに存在するけれど、日本語にはほとんどテキストがない。英語ではたくさんの情報があふれているのに翻訳された日本語情報がほとんどない。そんな経験はないだろうか。

 逆のケースもたくさんある。海外からの来訪者がたくさん訪れるようなイベント、製品なのに英語(アルファベット)で検索した場合に情報がほとんどない。日本語のみに情報があり、英語圏ではこのイベントや製品は存在しないことと一緒だ。

 日本語と英語(アルファベット)お互いに情報格差にあふれている。けれど話は単純ではない。たとえばチェルノブイリについて詳細に知りたいと願った場合には日本語の「チェルノブイリ」でもなく英語の「Chernobyl」でもなくロシア語を表記するキリル文字で「Чорнобиль」と検索窓に入力しなければならない。

 

 「読む」ことについては自動翻訳がどんどん発達してきてだんだんと容易になっている。しかし、まだ、「探す」ということは難易度の高い分野となっている。 

 「読む」ということは受動的に受け身であったとしても手にいれることができる。けれど「探す」ということ、新たな検索ワードを手にいれるということは、能動的でなければ叶わないということなんだ。 

アウシュヴィッツ

 アウシュビッツ強制収容所ポーランドにある。 今のアウシュビッツ強制収容所はその役割と悲劇を伝えながら、その元々の目的に相反するように観光施設のようでもある。アウシュビッツに行くことは実は容易である。なぜなら近くの都市から定期バスが出ているからだ。ナチスドイツのおこなったホロコーストユダヤ人大虐殺)についてきちんと伝えることができるのは、アウシュビッツがそこに存在するから。アウシュビッツが観光地となっていて誰でも容易に「現地」に行って見ることができるから。もし仮に第二次世界大戦アウシュビッツがすべて取り壊されてなくなっていたとしたら、どうなっていたんだろうか。ホロコーストユダヤ人の作った出まかせだ、という陰謀論は今でもよく見る。もし仮にアウシュビッツをすべて取り壊して更地にしていたらおそらくはその陰謀論の補強材料となっていただろう。ほうら見ろ当時の建物なんてひとつも残っていないんだってね。

 

 アウシュビッツを訪れることによって人生の何かが変わる人もいる。もちろん変わらない人もいる。それは結果だ。だから人生が変わろうが、変わるまいがどちらだっていい。重要なのは、その何かが、ここで言えばアウシュビッツがあること。アウシュビッツに気軽に(日本からはあまり気軽にいけはしないが)いけること。それだけで全然意味が違う。

 

 インターネット上にある情報はすべて誰かがアップロードしたものだ。それは色々な理由があるにせよ、アップロードしたいからアップロードされているんだ。何らかの意図があって見せたいからネット上に存在する。ネットとはそんなイビツな情報で作られた世界だ。

 実は話はそこまで単純ではない。私たちは本当に自分のアップロードしたいものをアップロードできているのか。言葉だけではなく、それは何だっていい。ネット上にアップロードできる形として私たちは何かを伝えきれているのか。大事なことはそういったものをきちんと形にしようと試みることではないんだろうか。

チェルノブイリ

  東浩紀は2013年の4月にチェルノブイリを訪れている。チェルノブイリ原発事故は1986年に起きている。もう30年近くが経過しようとしている。

 チェルノブイリ旧ソ連邦、現ウクライナにある。放射能原子力に対する考え方は様々であるものの東浩紀が取材したウクライナ人は基本的に同じ主張をしている。それは、チェルノブイリ原発事故の記憶は風化しつつあり、風化を食い止めることができるのであれば、そのきっかけは観光客の訪問でも、映画でも、ゲームでもなんでも良い、ということ。

 チェルノブイリ博物館では、さまざまな資料や関連情報がデザイナーの主観のもと、文学的に、芸術的に、あたかもアートワークのように展示される。それは歴史博物館というよりもどちらかといえば美術展という響きの方がより近い。

 考え方にもよるが、感情抜きの客観的な展示だけでは、出来事の記憶は伝わらない、残らない、という考え方から、このような博物館の作りになっている。

 どんなに客観的な情報を的確に並べても誰も見てくれないのならば、それは価値がない。情報を提示するだけでなく、感情を揺さぶるような何かが必要なんだ。そうしなければ出来事の記憶は残らない、ということが思想のど真ん中にある。

 

 「情報を知りたい」「アクセスしたい」という欲望を扇動しなければ、感情のどこかの部分を揺り動かさなければ、それは記憶にはならない。

 

 移動時間、待ち時間は決して無駄ではない。例えば私たちが夏フェスにいく時には移動時間をかけてフジロックに、サマーソニックにたどり着く。そこへ辿り着くまでの時間、色々な多くのことを考える。そしてライブが始まる前に待ち時間というものが発生する。この移動時間、待ち時間という拘束された時間こそが旅の本質と東浩紀は言う。ネット上のライヴ配信のように終わった瞬間にブラウザを閉じれば終わる何かとは異なり、非日常の中で体が拘束されることにより、考える時間ができ、そこからあらたな欲望が生まれてくる。出会うべきは新しい情報ではなく、新しい欲望。 

 

韓国

  この章は東浩紀が1991年に初めて出かけた海外旅行(韓国旅行)の話題からはじまり、そして哲学の話へとつながっている。

 

 どうしてわかりあうことができないのか。

 

 検索とは、自分に都合のよい物語を引き出すツールとしては最高の手段だ。検索ワードにより異なった物語がつむぎだされる。

 でも、それはつまり「ある人が検索でたどりついた世界」と「別の誰かが検索でたどりついた世界」は全く異なる価値観をもつ世界でしかない。

 「言葉」だけでは争いをやめられない。それでも争いをやめるためにはどうするべきなんだろうか。

 

 ひとつはモノに頼ること。そしてもうひとつは「検索ワード」を更新すること。自分の身の置きどころを変え違った検索ワードを見つけること。

 

バンコク

  タイ、という国にどんな印象を抱いているだろうか。

 

 2013年の8月に東浩紀はタイのバンコクを訪れている。彼のバンコクに対する印象は「豊かさ」。ショッピングモールは学生と家族連れでにぎわい、マクドナルドなどのファーストフードは日本と価格が変わらない。ヴィトンやアルマーニといったブランドの店にも多くの人がいた。

 もちろん東浩紀の見たバンコクだけがバンコクではない。例えばタイもバックパッカーたちの聖地であり格安で安価な旅をしたい若者たちであふれている。東浩紀が訪れたような豊かさがあふれた場所へはいけない貧困層だってたくさんいる、という指摘もあるはずだ。おそらくはそうなんだと思う。けれど、それが本当のタイとは本当のバンコクとは、なんだろうか。ある一面から見る物事の姿だけが真実を照らすわけではない。

 

 日本中どこにいっても同じ国道につらなる風景。イオン。コンビニエンスストアブックオフハードオフ吉野家松屋すき家。KFC。マクドナルド。ロッテリアモスバーガー。ガスト。ダイソーニトリ西松屋ユニクロ。コジマ。洋服の青山紳士服はるやま。ゲオ。TSUTAYA。パチンコ屋。ラーメン屋。焼肉屋スーパー銭湯。ホームセンター。ドラッグストア。インターネットカフェ

 コンビニエンスストアに行けばあるものはすべて一緒。日本中どこに行っても。日本は国道によって均質化されている。どこまで行っても、いつもと同じ風景。いつもと同じ商品。いつもと同じ味。いつもと同じサービス。

 けれど、それと同じ現象は世界レベルで起きようとしている。世界中同じようなホテル。同じようなモール。同じようなチェーン店。

 世界中が同じようなショッピングモールに行き、同じような服をまとい、同じような音楽を聴き、同じようなファーストフードを食べる。

 日本はファスト風土化している。国道によって個性が消えていいる。とどこかの偉い人は言ったけれど、世界だって変わりはしない。

 

東京

 東京と書かれたこの章では「老い」について書かれている。

 

「限界」について。

 実は薄々気がついていたことがある。何かの仕事している時に、何かの作業をしている時に最終的に終わりを迎えるのは「体力の限界」ということ。本当ならもっと手間と時間をかければこれは必ずよくなる、そんな確信がありつつも、目や手、もしくは頭がまわならくなったからここで、これは終わり。止めざる得ない、という経験がある。

 ジャック・デリダはコミュニケーションが止まるのはインクが足りなくなるからだと述べたそうだ。これはある種鋭い指摘だと感じる。コミュニケーションなんてものは誰かの理想とは異なり、参加者が疲れ、議論に飽きるから、そこで止まる。決してそれは合意があったわけでも、目的に達したわけでもない。東浩紀はネットの「論争」を見ていると、まさにそんな感じがすると感想を述べる。これはよくわかる。実際の会議などでも結局参加者が疲れてしまい、最後まで体力があって生き残ったものが正義とされる会議を私は何度も経験したことがある。

 

「どぶ板選挙」

 東浩紀アメリカ生まれのソーシャルメディアは日本でどぶ板選挙に変質してしまったと語る。

 ネット上での評価は内容もさることながら、たいていの場合は露出数が多ければ多いほど確実に注目度があがり、それはツイッターのツイートであり、フェイスブックの投稿であり、メルマガの配信であり、ブログの更新であり、ニコ生での宣伝であり、さらに悪循環なことにその内容を小出しにして長時間ネットに張り付くことが重要。ネット系の言論人と呼ばれる人たちは長い期間、ずっとネットで体力の消耗戦をおこなっている。

 

 ネット上で行われている「どぶ板選挙」は結局のところルーティーンワークの繰り返しであって決して新しいコンテンツを生み出す何かではない。人のリソースは有限であり、それは体力に起因していて「限界」は本当にあっさりやってくる。「どぶ板選挙」を繰り返している限り、決して新しいコンテンツは生まれてきやしない。

 

 「議論」などから導き出される「答え」は体力と根気の絶対値が途絶えたところに準備されている。はじめから正しさなんて重要じゃないんだ。体力と根気のある人間が正解と考えていることが、ある意味で「議論」の正解と呼ばれている。そんな場所から抜け出すためには何が必要なのか。

 

 「新しいコンテンツ」もしくはこの本で繰り返されている「新しい検索ワード」は最適化された無駄のない日常からなんて出てきやしない。そんなものは偶然性の中からしか生まれないんだ。そして、そのために若者よ旅にでよ、と。

観光客五つの心得

ボーナストラックとかかれたこの章には5つの心得が書かれている。

特に何も書かず、その言葉だけを記す。

1. 無責任を怖れない。

2. 偶然に身をゆだねる。

3. 成功とか失敗とか考えない。

4. ネットには接続しておく。

5. しかし無視する。

旅とイメージ

 「グーグルが予測できない言葉を手に入れよ!」という帯に書かれた言葉は不思議なアジテーションだ。けれども言いたいことはわかる。私たちは日々の生活の中でグーグルにすら見透かされたような必然性の中で生きている。決まりきった代わり映えをしない変哲もない毎日を送っている。私が手に取る何かは、だいたい昨日と同じ思考パターン行動パターンから来ていて、特にこれといった変化なんてありはしない。

 毎日の検索キーワードだって、結局はいつもと同じ言葉。すべては予測の範囲内だ。そのグーグルを裏切るための方法がこの書では旅ということで提案されている。

 

 新しい検索ワードとはいったい何なんだろうか。それはおそらく漠然としていて曖昧なものだ。そもそも新しい検索ワードなんて必要ないという人もいるかもしれない。

 人口が減り老いていくこの国では現状維持は衰退と同じ意味だ。すでにどん詰まりは始まっている。新しい検索ワードはあなたに何かをもたらしてくれるのか。そんなことを考えている。

 

 この本はひどく読みやすい。けれど読み取れる内容は人によって異なるように思う。もしかしたら自己啓発本のように感じるかもしれない。さすがに旅行指南書として読むのは難しいように思う。

 実は読んでいただければ分かるが、普通に考えてそこまで多様に読める種類の本でもない。タイトルだってそうだし、帯に書かれている言葉にしたって難解なメッセージなどない。内容だって比較的一直線な内容。では何故、私は人によって読み取り方が違うように思うと言い出すのか。

 分かりやすい内容であっても読み手によってバイアスが色々とかかってしまう。むしろ分かりやすい内容であるがゆえにそういったことが起きやすい。という一般論を言いたいだけなのか。

 

 物語には読み手の数だけストーリーがある。優れた書き手ならばそれを意識して物語を重層的につむぐことができる。けれどそんな複雑な物語ではなく、一本道の平坦な物語であったとしても、やはり読み手の数だけストーリーがある。そんな当たり前のことを多くの場面で私たちは忘れてしまう。 そんな当たり前のことを忘れないために私はこの感想を書いた。

 

  検索ワードを選択する際に、なぜその言葉を選択したりするのか。という疑問が私の頭のなかに常々つきまとう。どうして毎回同じような思考で同じ検索をしてしまうのか。それは私の頭のなかにある凝り固まったルーティーンに影響されているのか。

  私は純粋に検索ワードを探す冒険、としてこの書を読んだ。マジか?と言われればマジだ。検索エンジンのための物語として東浩紀の本書を読んだ。あなたはこの書をどうやって読むのだろうか。

 

 

 

 

※このエントリの中に出てくる国道沿いのお店リストは「ここは退屈迎えに来て/山内マリコ幻冬舎文庫)」を参考にしました。

 

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