ブルー・ジャイアント 1巻/石塚真一
人は2種類に分けられる。そう、コンビニに置いてある雑誌や漫画の品揃えに満足出来る人間と、そうでない人間の2種類にだ。あなたの場合はどちらだ。
これはもちろん比喩だ。漫画とか雑誌に関する考え方の問題ではない。生き方の問題だ。
一般的な方の考え方はわからないが、こんなネットの片隅にあるブログにまで何かの情報、それは音楽かもしれないし漫画かもしれないし小説かもしれないけれど、そんなものを求めてわざわざやってくるあなたはおそらく後者、つまりコンビニに置いてあるような漫画や雑誌では満足できない人間ではないだろうか。
そしてもしかしたら、あなたはそんなコンビニにおいてある雑誌たちで事足りているであろう前者の人たちを軽く見ていないだろうか。
「BLUE GIANT(ブルー・ジャイアント)」1巻を買った時のことについて書く。
私はこの漫画をコンビニエンスストアで買った。
私はこの漫画の作者についてはいっさい知識がなかった。書店でこの作者の漫画の表紙は見たことがあるものの、内容についてはいっさい知らなかったし手にとる機会もなかった。上に書いてある簡単な説明文はすべてウィキペディアを参考にした。
ジャズについてもほぼ何も知らない。家に7-8枚のジャズのCDがあるだけだ。例えば村上春樹の作品に出てくるジャズの曲もほとんどの曲は聴いたことがない。いや、あるかもしれないが、どこかで何かのBGMとして流れていてたとしても曲名などを認識できていない。
じゃあ何故この漫画を買いたいと思ったのか。それは表紙に惹かれたからだ。そのコンビニエンスストアでは何故かこの「BLUE GIANT(ブルー・ジャイアント)」の1巻から3巻までが表紙が見えるような形で飾ってあった。きちんとビニールで封をされ内容を確認することも出来なかった。
私はこの漫画の1巻の、真っ黒い背景に青文字でBLUE GIANTと書かれた、男子高校生がテナーサックスを持つ表紙に惹かれた。ただの一度も読んだことのない作者、しかも自分があまり興味のないジャンル。衝動買い以外の何物でもない。それでもこの漫画は面白いに違いないという確信が不思議とあった。
逆に萌え以上に直接的な欲求に根ざしたような漫画は有名でなくともたくさんおいてあったりする。コンビニでしか見たことのないようなタイトルもいっぱいある。
コンビニでのゲームソフトの話をする。例えばコンビニでゲームソフトが販売されていることがたまにある。それは本当に有名なタイトルばかりで、例えば「ドラゴンクエスト」であり「マリオカート」であり最近で言えば「妖怪ウォッチ」であり、しかもそれは発売日の当日や翌日の出来事でお店の在庫になったりなんてしない。
コンビニエンスストアでは、直接的な欲求に根ざしたものを買うか、誰もが知っているあの有名なタイトルを発売日直後に買うことしか出来やしないんだ。というの思い込みが私の中にはある。しかしその固定概念は打破された。
ブルー・ジャイアントは主人公の男子高校生・宮本大が仙台市の広瀬川土手でテナーサックスを吹くシーンから始まる。宮本大は中学卒業直前の時期に親友の周平に連れられてやってきたジャズ喫茶で初めてジャズにふれる。周平はジャズの魅力を「正直なんだかよくわからないけれど、なんかハゲしい感じなんだわ」と語る。
ワンピースに登場するルフィが「海賊王に、おれは、なるっ!」と言うように高校生3年生の宮本大は「世界一のジャズプレイヤーに、なる」とはっきり口に出す。
彼はジャズに魅せられてテナーサックスを狂った様に吹く。が、ジャズについては何も知らない。楽譜を読めないどころかジャズに楽譜があることすら知らない。ただただ突出したジャズへの熱意だけでサックスを吹く。
同級生にジャズとはどんな音楽なのか、何がいいかの、ということを尋ねられる度に宮本大は返答に困る。ただし答えは毎回だいたい同じだ。「ジャズはすげえ熱くて、ハゲしいから」「ハゲしくて自由な音楽がジャズ」「ジャズを聴いてくれ、な」
宮本大はずっとジャズの魅力を口で説明できずにいる。ずっとジャズを言語化できずにいる。でもこの気持はよくわかる。自分の好きなジャンルの音楽を言語化して説明したところで、そんなものは嘘っぱちなんだ。言葉で構築された丁寧なその魅力が、そのジャンルのもつ本来の魅力かどうかなんてわかりゃしない。中途半端に伝わるくらいだったら「すげえ熱くてすげえはげしい音楽」それでいいじゃねえか。
この漫画を初めて見た時に感じた魅力みたいなものに関する期待は外れていなかった。名作の予感がする1巻となっている。累計ですでに20万部もこの作品は売れているらしい。私は最近忙しさにかまけて書店に立ち寄る回数が減っているのかもしれない。魅力ある作品を探す手間を惜しんでいるのかもしれない。そんなことを感じた出会いだった。
どこにだって魅力ある音楽は転がっている。それは本当にどこにでもだ。出会うチャンスは誰にだって、どこにだってある。