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1Q84 book1 前編/村上春樹

読書 村上春樹 雑文 感想

 

  

村上春樹について書くことほど不毛なことはない。

 

 それでも書きたいと思う。

 そう思うくらいにこの「1Q84」という作品には魅力がある。

 傑作だと言い切ってしまっていい。

 

 「1Q84」は当初Book1とBook2がハードカバーで同時に発売された。いつものようにあっという間にベストセラーとなった。その後、続きの物語としてBook3が発売されている。

  そのさらに後「1Q84」は文庫本化された。Book1~3はそれぞれ前編と後編に分けられ計6冊となっている。私は文庫本になってから初めて「1Q84」を読むことにした。

 村上春樹の作品は9割位の割合で読んでいる気もするが、私は遅れて彼の作品を追いかけているにすぎずもはや現役の村上春樹読者ではない。実際私の語る村上春樹は「国境の南、太陽の西」あたりで止まっている。

 

 今回はその村上春樹1Q84」Book1の前編だけを取り上げる。6冊あるうちの1冊目の話。

 

  

 冒頭で村上春樹について書くことほど不毛なことはない、と書いた。

 

 何が不毛なのか。

 

 村上春樹をまだ知らぬ読者が、今、何もないまっさらな気持ちで彼の小説を読むことは難しい。おそらくは何かのバイアスがかかっている。もちろんバイアスなんてものは至るところにいろいろな事象に、いろいろな分野にかかっている話で村上春樹だけが特別といわけではない、でもしかし、村上春樹にかかっているそれはひどく退屈で見当外れなものが多い、と思う。

 あなたの中にすでに凝り固まった村上春樹のイメージがないだろうか。そう、もうすでに村上春樹がどんな作家なのかということについては受け手の中で出来上がってしまっていて、その考え方はわりと強固で偏見に満ちていて、私が、もしくは私達が今さら何かを伝えたいと願ったところで何も伝わらないからだ。

 でも本当に面倒なのは、まだ村上春樹を知らぬ読者にかかっているバイアスなんかではない。そんなものは取るに足らない小さいことだ。

 村上春樹の熱心な読者はやっかいな人物が多い。下手なことを書けば、お前を刺すぞというただならぬ雰囲気が熱心な読者からは漂う。彼らと何かを共感しあうことは実のところ難しい。彼らは、自分こそが、自分だけが、きちんと村上春樹を理解していると思っている。でも実はその気持ちはよくわかる。不思議な中毒性があの小説の中にはある。

  村上春樹の小説について何かを書いても誰のためにもならず、誰の共感も得られず、誰の意見も変えられず、単に反感だけを買う行動のように思える。そう、砂漠に水をやる行為のようだ。

 

 最近の村上春樹はどこか村上春樹自身のパロディのようだ。

 

 村上春樹の小説の書き方はずっと変わっておらず、習作とも言うべきいくつかの短編を書き、その後、そのいくつかの短編をかき集めるようにして長編を書く。このため長編作品を読んでもどこか既視感があるのはその書き方故に仕方ないことは理解できる。いつものことだ。が、そうとわかっていても「ねじまき鳥クロニクル」以降はその傾向が顕著で長編小説から拡大再生産を行い、同じ所をくるくる何度も何度もまわっているように思える。

 そう考えると最後の傑作は「国境の南、太陽の西」なのか。それ以降の村上春樹は作家としての生命を失ってしまったゾンビなのか。

 

 ジョージ・オーウェルはデストピア小説として「一九八四年」を書いたが、村上春樹はかつての少年と少女とが再開を願う物語として「1Q84」を書いた。

 

 ところでここで、私が村上春樹に対して持っている偏向した考えを紹介する。

 村上春樹は日本を代表する「SF作家」だ。文学者でもなければ、ましてや恋愛小説の書き手などではない。

 SF作家は文学者がそうするべきであるように、常に新しい何かに挑戦するべきだと私は思っている。と、同時にエンターティメント性を絶対に忘れてはいけないと思っている。

 

 村上春樹の長編の中に評判が高いもののひとつに「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」という作品がある。まったく別の世界の物語が交互に登場し「僕」と「私」がそれぞれの語り手となっている。

 「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」から17年後に書かれた「海辺のカフカ」では「僕」と「ナカタさん」の物語が交互に語られ、私はこの小説がどこか「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」のパロディに感じられた。

 

 「1Q84」では「青豆」という女性と「天吾」という男性の物語がやはり交互に語られている。当初、またこの手法かと戸惑った。いったい何度村上春樹は「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を繰り返せば気が済むのか、と。

 ここまでが目次をみて読み始めた直後までの話。

 

1Q84」の大雑把な内容を書く。 

 

 「青豆」は特殊な仕事をしている。その仕事の最中にいつの間にか「1984」年の世界から「1Q84」年の世界へと紛れ込む。一方「天吾」は予備校の講師をしながら小説を書いている。ある時「ふかえり」という謎の少女のゴーストライターを引き受ける。

 この「青豆」と「天吾」の物語が交互に繰り返される。

 

 「1Q84」という物語は過去最高のエンターティメント小説だと言ってもよいくらいにエンターティメント性が高い。私は驚いた。ここまで読者を楽しませる村上春樹は珍しい。

 

 いろいろな仕掛けが登場するが基本的にはエンターティメントであり、細部はそれにまつわる小道具だ。

 

 村上春樹の作品の中で、もっとも有名な長編は「ノルウェイの森」。この作品はいろいろな読み方ができるのだけれど、なぜ学生運動安保闘争が瓦解したのか?ということを、当時の雰囲気みたいなものをこの作品から読み取る事ができる。

 「ノルウェイの森」の登場人物、緑の有名なセリフを引用する 。

 「そのとき思ったわ、私。こいつらみんなインチキだって。適当に偉そうな言葉ふりまわしていい気分になって、新入生の女の子を感心させて、スカートの中に手をつっこむことしか考えてないのよ、あの人たち。そして四年生になったら髪の毛短くして三菱商事だのTBSだのIBMだの富士銀行だのにさっさと就職して、マルクスなんて読んだこともないかわいい奥さんもらって子どもにいやみったらしい凝った名前つけるのよ。何が産学共同体粉砕よ。おかしくって涙が出て来るわよ。」

  主人公(=僕)はノンポリでこういった学生運動から少し遠い位置である種傍観者のように振舞っていた。また村上春樹自身もノルウェイの森の前後に海外で暮らすようになっており、最近はそうではないものの、国内のメディアに登場することはほとんどなかった。ファンは長い間、安西水丸の描くイラストでしか村上春樹の顔を思い浮かべるすべはなかった。このあたりの印象からか村上春樹は政治的な出来事あるいは社会的な出来事に対し無関心だと思われていた。

 もちろん村上春樹は「アンダーグラウンド」というノンフィクション作品や「神の子どもたちはみな踊る」という短篇集を書いており、これは決して社会的な出来事に無関心な作家の仕事ではないが、これらの作品については村上春樹を語る際には何故かメインの話題として取り上げられることは少ない。

 

 「1Q84」の中に「さきがけ」と「あけぼの」という組織が登場する。「さきがけ」はカルトな新興宗教の集団で、原始的な共同生活をしている。その「さきがけ」の中から活動が過激で先鋭化しすぎたメンバーたちが離脱して新たな組織を作る。それが「あけぼの」。パッと読んだだけでもわかると思うが、ともに何らかのモチーフがある集団だ。しかしこれは物語の本質にはそれほど深く関わってこない。物語を盛り上げる重要な要素ではあるが、この組織と関連することは物語の本質ではない。あくまでもエンターティメント的な盛り上げをするための小道具としてこの2つの組織は登場する。

 

 村上春樹の小説と言えば音楽だ。

 

 村上春樹の小説と音楽はもうすでに切っても切り離せないものとなっている。それはクラシック音楽であったりジャズであったり、ロック・ミュージックであったり文章の内容により、シーンにより異なるが、その音楽をうまく切り出して小道具として利用してみせる。

 物語が1984年ということもありマイケル・ジャクソンも当たり前のように登場するが、「1Q84」では、それより何よりヤナーチェックの「シンフォニエッタ」だ。物語の冒頭で青豆が乗りこんだタクシーが流しているFM放送の音楽番組でかかる曲として登場する。いや、天吾の章でも登場する。とにかく「1Q84」の中で何度でもこの曲が登場する。

 少し引用する。

 ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』の冒頭部分を耳にして、これはヤナーチェックの『シンフォニエッタ』だと言い当てられる人が、世間にいったいどれくらいいるだろう。おそらく「とても少ない」と「ほとんどいない」の中間くらいではあるまいか。しかし青豆にはなぜかそれができた。

  聴いていただく(→ link)とわかるがヤナーチェックの『シンフォニエッタ』の冒頭は管楽器の印象的なファンファーレで始まる。このため、知っていれば「言い当てる」という行為はあまり難しくない。けれど、私がそうであるように、初めて聴いた、もしくは聴いたことはあるけれど曲名までは知らなかった、という人がほとんどではないだろうか。

 私は「1Q84」以降に初めて『シンフォニエッタ』を聴いた。実のところ曲を聴くまではここまで荘厳で威厳に満ちた曲だとは思っていなかった。冒頭の青豆の言葉から察するにこの曲の冒頭はあまり印象に残らないという意味に受け取っていた。それ故この曲は村の脇に流れる小川のせせらぎのようなはじまりを持つ曲と想像していた。

 物語の中で何度も何度もこのヤナーチェックの『シンフォニエッタ』が登場する。この曲がもともとどれくらいの知名度あったのかは私は知らない。けれど「1Q84」が書かれて以降、ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』といえば村上春樹の「1Q84」と関連付けている層もすくなからずいるはずだ。事実、例えば先ほどリンクを貼った動画(youtube)のコメント欄には「村上春樹」、「1Q84」の言葉が頻出しているし、運が悪ければアマゾンでヤナーチェクの『シンフォニエッタ』を買おうとするとレコメンドとして村上春樹の「1Q84」をおすすめされる。

 ヤナーチェックの「シンフォニエッタ」は村上春樹的なもので塗りつぶされている。私が無知なだけかもしれないが、少なくとも私にはそう見える。

 村上春樹にはバイアスがかかっている、という内容から書き始めた文章が、こんなところへたどり着いてなんとも言えない不思議な気分だ。

 デストピア的な抑圧から逃げ出そうとしたところ、やってきたのはまた違ったデストピア的な何かだ。

 あるいはゾンビ取りがゾンビになってしまったということか。

 

 

 

 

 とりあえず6冊あるうちの一冊目の感想としてはここまで。

 

  

 

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